第九章 月夜の廃墟にて人の縁に感謝する(1)
文字数 2,813文字
夕刻をとっくに過ぎた暗闇の中、背丈を超える茂みに
「沼地の
いつもは心地よいはずの、草の匂いが
リラは
出発までに残された時間はわずかで、何も手にせず終わる可能性だってあるが、エルトランの謎めいた行動のわけを、自分の目で見て確かめなければ気が済まない。もはや、研究者としての意地だった。
この時間、月はまだ出ていないため、人目につきにくい状況を活かしての行動だ。手もとが見えなくても、灯りをつけるわけにはいかない。
このまま進んだところで鉄柵の向こう側に出られる保証はない。傷がかゆみを帯びる。後悔の念を塗り潰すように、杖で蔦を払いのけては前へと進んだ。
生徒数の減少に歯止めをかけるための奨学金制度も気休めにしかならず、学院の拡大から十年で西の敷地は放棄されるに至った。突如として鉄柵が設けられたのは、それから数十年後、リラが十六歳の冬である。旧敷地での学生同士による決闘を禁止させようと、後援貴族会が強く働きかけたからだ。
ようやくたどり着いた鉄柵に沿って調べたところ、柵が歪んだ、這ってくぐれそうな隙間を見つけ、それまでが嘘のように侵入を果たすことができた。
リラは服に刺さった棘を抜きながら振り返り、誰の姿もないことを確認する。ペンダントを握って大きく息をつくと、建造物の影が立ち並ぶほうへ足を向けた。
学舎らしき建物の脇を行くリラの頭上では、コウモリたちが不規則な軌跡を描く。中央棟を照らす魔術の灯りには多くの虫が集まるため、彼らにとってこの廃墟はうってつけの棲みかとなっているようだ。
外れた扉口から真っ暗な室内を覗くと、机や椅子が山積みのまま残されている。
つぎにやってきた庭園跡は荒れ放題で、足を踏み入れることさえできない。通り抜けてきた若い木立は噴水をともなう広場だったのだろうが、敷かれた石畳は、落ち葉や土に覆い隠されているか、縦横に走る木々の根で軽々と持ち上げられていた。
「ここは、ちっとも変わらない……あの時のままだ。わたしはどうなんだろう、すこしは変われたのかな」
十六歳の秋で途絶えた記憶は苦いものばかり。学生の頃は、がむしゃらのままに毎日が過ぎていき、とった行動のすべてが正しかったなんて思わない。そう感じられるほどに月日は流れていた。
その時リラは、闇の中から何者かが見つめているのに気がついて、身構えようとするがすぐに杖を下ろした。ぎこちない足取りで近づいてくる人影は、警備で巡回する
用途上、甲冑で身を固めた意匠だが、現在の魔術では複雑な命令を与えるなど不可能なため、侵入者に見向きもしない。リラは通り過ぎていく無機質な横顔を見送ると、さらに奥へと向かった。
視線のずっと先には、灯火が規則正しく並んだ西の市壁が見える。視界が開けたそこは居住区だった場所だ。おおかたは採石のために取り壊されて石組みの跡を残すのみだが、明るくなれば魔術の衝撃で倒壊した壁や、引きはがされた石畳も見えるだろう。
この区画は廃墟となってから閉鎖されるまでの数十年、伝統的に決闘の舞台として選ばれてきた場所だった。
魔術師がその力を存分に発揮するには、術者の精神面での成熟が欠かせない。魔力を生み出す源となる知性には、知識の積み重ねだけでなく、相反すると思われがちな感情の働きが深く関わっているからだ。
ただ、学生が精神の世界を大きく広げ、魔力を自在に操り始めるのは、未成熟さを多分に残した年頃だ。若さゆえに起こる問題の解決を、持て余す力に頼る者も多く、リラとて例外ではなかった。
それはそうと、いま彼女が目にしている光景はなんだろう。まばたきすら忘れた両目に映るのは、凄まじい破壊の跡だった。
ここには、唯一残された建造物であり、
――いったい誰がこんなことを……。でも、これって〈
脳裏をかすめたのは、過去の戦乱で
破壊をもたらしたものが、伝え聞く集団魔術ならばエルトランひとりに扱える代物ではない。また、瓦礫を押しのけて木が勢いよく伸びる様子から、年月を経たものだということもわかる。
強力な魔術の
リラは策を手にせず来たのではない。いくら広大な敷地といえど、「人の考えることなんて、どれも似たり寄ったりに違いない」という冷静な判断による裏付けがあった。
とはいっても、しばらくは一帯を歩き回る事となる。月夜のそぞろ歩きに来たわけではないのに、出会うものといえば、代わり映えしない土人形ばかり。
「いい狙いだと思ったのだけれど、無駄足だったかなあ」
ふと、石塀の上で体を伸ばす猫と目が合った。学院内で飼育されていたものが棲みついて
足元に気配なく、すり寄ってきた一匹に気がついたのはその時だ。毛足の短い、立派な体格の黒猫だった。よほど人に馴れているのだろう、と感心してすぐさま、リラの眉が不審を形作る。
――はて、こんな所に来る人物だなんて、怪しい限りじゃないか。
自分を棚に上げると、猫を刺激しないようにしゃがみ込み、
成功すれば、リラの記憶に蓄積されたなかでも至って複雑な魔法構文が効き目を見せるはずだ。
変化はすぐに表れた。手足の感覚が薄れて視界にひずみが生じると、黒猫以外のいっさいが消えていた。