第三章 ジュナンとヴィルジット(5)
文字数 3,336文字
「それっていつの話なの!? 旧の敷地っていえば、古い学舎のほうってことよね」
現在のカンタベル学院の西側に古い学院敷地があり、解体をまぬがれた建造物が荒れ果てたまま残されている。フルミドが話すのはその
「そうです、茂みの中から出てくるんですよ、こうやって枯れた
フルミドは、身振り手振りを交えて話した。
現在、旧敷地への立ち入りは学院条例で禁止されており、とりわけ、学生の違反に対しては厳しい処罰が課せられた。また、数十年のあいだ手入れもされず、草も木も伸び放題である。
夜更けに、そこから戻ってくるエルトランの姿をいちどならず目撃しているという。
「けれど、彼は向こう側でいったい何をしていたのかしら」
「さあ……わからないですねえ。それに、あちらの敷地も広いのではないですか?」
「ええ、知らずに入ったら迷ってしまうくらい」
ふたりは、あきらめるように言った。古いといっても、小さな町がすっぽり収まるほどの広さだ。条例に背いて侵入したところで、エルトランが立ち入った場所の特定は難しい。おまけに、明日の早朝には出発しなければならなかった。
カンタベル学院の設立は二百年以上をさかのぼる。当初は、南西で口をあけたチャタンと呼ばれる巨大な
形成された都市、キャンタベリーは、東へと発展をつづけた。川下にある港町フランパーナとの交易に必要な船着き場、富裕層の居住区や神殿の建設に適した小高い丘、そして市場を開くための広い土地、さらには、低くて湿った三角地帯の貧民街。あらゆるものが取り込まれていくいっぽうで、学院は隅に追いやられる事となった。その広さが皮肉にも、都市の西側への成長を妨げたのだ。
五十年ほど前にはロシュフォード魔術師養成学校が開かれた。折り悪く、カンタベルが都市の発展に追従しようと拡大工事を始めていたため、両校のあいだには今日までつづく深い溝が生じる。
やがて、学生数の減少により、カンタベルは伝統ある区域の閉鎖を余儀なくされた。
「フルミドさん、いろいろとありがとう。いままで、きちんとお話をしたことがなかったけれど、あなたって、とても親切な方だったのね!」
フルミドに対する印象は、よいものではなかった。役員室への呼び出しに始まり、剣士の旅装に至るさまざまな指示が、彼を通してのことだからだ。職務をこなしているにすぎない当人にとっては迷惑な限りだろう。
ただ、協力的な態度がエルトランへの心情に根ざしたものである以上、手放しでは信用できない。いえるのは、彼が善良で気配りの細やかなこと、それから、とても噂話が好きそうなことだ。
役員たちの裏事情についても詳しいのではないかと思ったが、リラが口にしたのは、それよりもずっと気になることだった。
「ねえ、さっき、わたしがエルトランを連れ帰ったら、あなたは嬉しいって言っていたわ。でも、もし本当に……、本当にそうなったら?」
自信があるわけではないけれど、気がかりなのは、フルミドの抱く感情が
リラは、黙り込んでしまった用務係をじっと見つめる。
「あなたと、彼のあいだに、何かとてもつらいことがあったのね」
心情に寄り添い代弁しようとしたが、いらぬお節介だと気がついた。せかしては真意を知ることができない。
「そうですねえ……、あの方に恨みがあるわけではないのですよ。ただ、わたくしはきちんとした理解を求めたいだけなのです」
フルミドは、いくぶんか気持ちの整理がついた様子でつづけた。
「あれは、寮の清掃をしている時でした。わたくし、うっかりとあの方に失礼をしてしまいまして……『うろちょろしおって目障りな下人が!』とお叱りを受けたのです」
深く頷いて理解を示しながらも、リラは大きな一歩を踏み出せたように思えた。初めて耳にするエルトランの、生きた情報だった。
「そして、杖でわたくしを打たれました、三回も! これでもわたくし、下働きに誇りをもっているのに、あんまりです。あの方は……いえ」
リラは眉をひそめ、用務係のとんだ災難を思いやる。もちろん気の毒なことに違いないが、それだけとも思えなかった。けれど、必要なく他人の心に踏み入ることは望まない。
「たいへんなことがあったのね。思いだすだけでもつらい話でしょうに。でも、教えてくれてありがとう」
フルミドに向けた言葉で自身を押しとどめた。ところが、
「わたしだって、それは……いろいろあったわ。十三歳の女の子が山奥から出てきて……たったの十三、それもひとり! 家族と別れて心細いのに、町の暮らしが本当に窮屈な毎日で、食べ物は全然おいしくないし、魚の匂いなんて、たまったもんじゃなかったわ!」
リラは時々、自分で何を話しているのか、わからなくなる。
「それに、わたしだって雑用が大好き。うんと小さな頃からね。たぶんみんなの喜ぶ顔が見たかったから。ほら、よくいうじゃない、仕事は雑用に始まり雑用に終わるって。あなたはもっと胸を張っていいと思う。でも、下人だなんてひどい言い方。おまけに、杖で打つなんて最低よ! とんでもないことだわ!」
フルミドは、孫ほども歳の離れた娘に励まされ、くすぐったい表情でうつむいた。
息を整えつつリラは考えた。そうだ、明日からの任務も実力しだい。雑用だと思えば、ずいぶん気持ちが楽になる。なんでも悪く捉える癖はやめよう。
それに、フルミドに対してはひどい仕打ちを見せたエルトランだが、敵対的な人物だと決めつけるのもよくない。――ふと疑問が生じる。
「ところで、なぜエルトランなの? 誰が見たのかしら、彼が書物を盗むところを……」
蒸し返すつもりはなかったけれど、口に出さずにはいられない。フルミドは首をかしげるだけだ。
「エルトランは事件のあと姿を見せていないわ。それは確かなことなのでしょう。でもね、はたして本当に彼の意思なのかしら? じつは事件を
情報のないリラには正しい判断などできはしないが、はやる気持ちを抑えきれず、勢いのまま並べ立てた。
「そもそも、異端研究で違反歴のある彼が犯人だっていうのも出来すぎた話じゃない? きっと事件には黒幕がいて、にんまり糸を引いているのよ。エルトランをそそのかしたあげく、証拠を消し去るために……」
役員の男たちが事件をでっち上げ、リラも含めた
「ふふふ、よく次々と出てくるもんです。物語を考えるのが、とてもお上手なんですねえ」
暗に諭されたリラは頬を染め、つぎに、なんとも情けない顔をした。自称、慎重派が聞いてあきれる。フルミドと目を合わせて苦笑い。
「ところで、エルトランが盗み出した書物って……なに?」
事情に詳しいフルミドならあるいは。
「はあ……知らないですよ。うーん、なんでしょうねえ」
フルミドは気のない返事をしたあと、一礼してから陽気に言い残す。
「あの方と、ふたたびお会いできる日を楽しみに待つといたしましょう。ふふふ……」
意外な人物と心を通わせることができたのだから、エルトランを知るのもたやすいはずだ。いつか、あの役員たちとも分かり合える日が来るだろう。――突然、リラが激しく首を振ったのは、ふと浮かんだ気の迷いをかき消そうとしたからだ。そして、去りゆく丸い背中を呼び止めた。
「ねえ、フルミドさん、迷惑ついでにもうひとつだけ、どうしてもお願いしたいことがあるの!」
第四章につづく