第六章 マレッタの重すぎる課題(2)
文字数 4,137文字
ある日のことマレッタは、青白い顔で魚の香草焼きを口に運んでは、吐くのを懸命にこらえている新入生を目にする。偏食とは縁のない、体の丈夫そうな
聞けば、ずいぶん遠くの山奥より出てきたため、町の食事に
魚嫌いの田舎娘、つまりリラは、好き嫌いや食べ残しに厳しい目を光らせる恐ろしい調理人の噂を聞いていたため、涙を浮かべながら異物を胃袋に送り込む毎日だった。
魔術の修行はいくら厳しくても平気だけれど、魚料理だけは耐えられない。多用されるパクナスとかいう
マレッタは見るに忍びなく、味付けや調理方法を変えたものを特別に作ってやった。いまでは学生たちに毎日してやることも、この時が初めてだ。怯えていた娘も、マレッタの気遣いに応じようと奮闘し、特別な味付けがなくても、かろうじて食べられるまでになる。
皮肉にも魚料理がふたりを結びつけたのだ。マレッタには同じ年頃の息子があるため、親子のような関係だった。
一年も過ぎた頃、娘はしょぼくれた顔を見せるようになる。貴族や上流階級出身の子息たちとそりが合わないばかりか、勉学に励むほど溝が深まっていく、と
マレッタが親身になって聞いていると、今度はうつむいて顔を赤らめる。どうやら、想いを寄せる相手がいるらしい。マレッタは母親のように、その成長を喜びもしたけれど、向こうは学力優秀で家柄もよいため、生徒たち
高い壁を飛び越えようと、あきらめずに頑張るその噂はマレッタの耳にも届く。同時に、〈山の娘〉とたゆまぬ努力を
さらに年月が流れる。ある時、リラの身の上に、いくつもの耐え難い出来事が降りかかったようだが、マレッタにさえ打ち明けることをしなかった。
幾人かの生徒が学院を去ったことに端を発するようで、すぐさま痛々しい生傷を作ってくるようになる。よくある、学生同士の私闘にでも巻き込まれたのだろう、と思っていたが、当時の彼女の言動は危なっかしく、かける言葉も届かないため、そっと見守るしかなかった。
何も食べたくないと言うほど、元気を失った姿を見たのは、この時と、評議会によるリラの除名処分を撤回させた、アトワーズ師範との別れ際ぐらいのものだった。
マレッタと、成長していくリラとの関係は、親子のような仲だったものが、卒業後には友人のような結びつきへと変化していった。長い時間を共有し、悩み過ごす中で、互いにかけがえのない友人となれたのだ。
「ねえマレッタ。すこし前の出来事なのだけれど、学院の書物が盗まれた事件って覚えている?」
マレッタは、ゆったりと風をはらむ
「もちろん覚えているさ。あれは暖かくなる前だったね。盗みを働いたやつが姿を消したっていう」
「ええ、そうよ。あの時はカンタベル中が大騒ぎだったわ。それじゃあ、逃げた犯人のことは?」
エルトランは奨学金制度を使い、過去に生徒として在籍していたはずだ。若い時分から厨房にいるマレッタが知らないはずはない。
「たしか……、エルトランだったかね、
「うーん……違うかなあ。でも、どんな人なのか調べないといけなくなって、マレッタなら、きっと何か知っていると思ったの」
「まあ、いくらかはね。でも、こう言っちゃあ何だけど、あまり印象はよくないねえ。それに、あんたの役に立つような話をしてやれるか分からないよ。それでも聞くかい?」
怪しみもせずにリラを見る。
「ええ、聞かせて。どんなことでもいいわ」
「あの子について覚えているといえば、あきれるほどの好き嫌いだね。事あるごと、あたしの献立にケチをつけに来るのさ」
「ちょっと待って……、それってなんだか昔のわたしみたいじゃない」
「あれまあ! いまの言い方だとまるで、あんたが魚を食べられるようになったみたいに聞こえるねえ」
マレッタは見透かしたように人の悪い笑みを浮かべる。
「ええ、平気よ、もちろん食べられるわ! 魚なんてコツさえつかめばやさしいものよ。こうやって鼻をつまんで、香辛料をたくさん――」
澄まして反撃を試みたけれど、どうも旗色がよくない。
「それはそうと、あの痩せっちょ、どうしてか魚だけは平気だったな。しかしまあ、どこであんな甘ったれに育ったんだか……。食べるのにも困るほど貧しい生まれだっていうじゃないか」
エルトランの出自については先刻、ロスローの研究室にて聞かされたばかりだった。複数の証言があったわけだが、ひとつの噂が広まったもの、ということも十分に考えられる。
「貧しい生まれって、
「そうさ、ほかの子たちから聞いた話だけどね。もしかしたら、ずいぶん苦労してきたのかもしれないねえ」
「きっとそうよ。彼は学院で学ぶために、たいへんな努力を重ねたに決まっているわ」
共感を抱く場合ではないのに、リラは、つい自らをエルトランに重ねてしまった。マレッタが、すっと背を伸ばす。
「だんだんと昔のことを思いだしてきたよ! 十五年も前だったかね、あの子が学院に来て間もない頃、自分の生まれはフランパーナの上流階級だって息まいていたんだ」
「え、どういうこと……。エルトランは貧民街の生まれでしょ? なのに、なんでそんな嘘を言ったの」
フランパーナは、異国との貿易によって栄える
いっぽうで、華やかな表通りから路地を曲がると、そこにあるのは光と影の激しい落差。貧しい者たちの暮らす通りが網目さながらに広がっている。
灯りに魅せられる虫のように、多くの者が成功を夢見て集まっては、失意のうちに裏通りへ消えていく、といわれていた。
エルトランの
リラは深く首をひねった。マレッタは、いぶかしみながらも、ひとつ、話をつけ加える。
「そりゃあ、あたしだって、おかしいと思っていたさ。ところがだよ、いつだったか乗馬も巧みだっていう自慢話を長々と聞かされてねえ」
「彼は馬に乗れるの!?」
そういえば、痩せた男が単騎、東へ向かったという情報は初めに聞かされていた。真実ならば、フランパーナの上流階級出身だという話にも合点がいく。貧しい身分の者が、訓練された馬を、おいそれと扱えるわけがないからだ。
「さあ、どこまで本当の話だか……。取り巻きに囲まれていたことを思うと成績は優秀だったようだねえ。もちろん、あんたが言うみたいに努力はしたんだろうさ。けど、はたからだと、大きく見積もりすぎた才能にすがっているとしか見えなかったな」
「なんだか、ずいぶん手厳しいのね。それで、彼の後ろをついてまわっていた人たちはどうなったの」
もの言いは
「取り巻きたちかい? 付き従っていたのは最初のうちだけだよ。自分たちが、見栄を張るための飾り物だって気がついたのさ。どうもあの痩せっちょは、そうすることで心を満たしていたように思えるねえ」
「彼は自分に自信をもてなかったのかしら。成功への憧れというより、なんだろう……、引け目のようなものを感じるなあ」
頷きながらリラは、頭の中を鍋料理のように、ぐるぐるとかき混ぜていた。肯定感が乏しい印象は、エルトランの過去に原因を求めることで説明がつく。
フランパーナの上流階級を出身とし、馬を巧みに扱える話。部屋で見つけた
「でも、さすがは鬼のマレッタ料理長! なんでも知っているのね」
「ま、あたしが知っているのは、これくらいのもんさ。それで? いつ出発すんのさ、エルトランをひっ捕まえに」
「え……ええっ!? ち、違う、わたしウトロなんて行かない!」
マレッタは腹を抱えて体ごと笑った。軽い気持ちでかまをかけたつもりだったのだ。
「知られちゃまずい役目なんだろ? あたしが勝手に勘ぐっているだけだから気にすることはないよ」
しょんぼりとうなだれたリラの、沈黙が意味するところはあきらかだった。学院の機密を最優先にするよう指示されていたはずなのに……。
「まあ、だいたいは察しがつくけどね。
返す言葉もない。もしかすると