第一章 日常はついえ 魔術師は悲嘆に伏す(3)
文字数 2,951文字
「ただし、調査は君の魔術師としての身分を隠して行うこと。決して他の者や外部に情報を漏らしてはならない。たとえ学院の関係者であったとしてもだ」
魔術を使えなくては、いざというとき身を守れない。おそらく、エルトランが持ち出したのは高度な魔術書で、危険なものに違いなかった。
「これは学院を守るための措置だということもわかっているね。つまらぬ噂が広まってロシュフォード校が聞きつけでもしたら厄介だ」
男は競合相手の名を口にすると、もうひとつ苦い顔をした。
リラが住む都市キャンタベリーは、魔術および歴史研究の盛んな土地だった。古代の遺跡がひしめく、チャタンと呼ばれる
そして彼女が魔術を学び、卒業後には研究員として従事しているのが、二百年の伝統を誇る王立カンタベル魔術学院である。町にはもうひとつ、創立五十年になるロシュフォード魔術師養成学校があり、自由を重んじた校風が、古典的なカンタベルとは対照的だ。
両校は、設立時の込み入ったいきさつがもとで、非友好的な関係をつづけていた。
ウトロの件がエルトランのしわざだった場合、それが明るみにでもなればロシュフォード校に対して失態をさらすことになる。そんな男の気苦労を、むっつりとした表情のわけを〈目の前に突っ立っている
背景にある、包み隠せない何かを感じてリラは口を開いた。押し黙っていても事態は好転しない。
「わたしは、その逃亡者との面識はありませんが、よくない噂ばかり耳にします。聞くところによると、異端魔術に手を出していたとか」
学院の敷地は広大で暮らす人間は山ほどいるが、その人物には心当たりがあった。歳は三十ほどの、まだ若くて痩せた魔術師で、屈折した情熱を感じさせる目が印象的だ。そして禁断の研究。考えの先には、盗み出した魔術をもって立ちはだかる男の姿があった。
山深いウトロでの事件と失踪した犯人を、にわかに結びつけることはできないにしても、そこには大きな危険がつきまとう。
「その者が持ち出した書物には、どのような研究が記されていたのかを教えてくださらないでしょうか」
彼女は日頃から慎重であろうと心がけていた。小生意気な田舎者の足をすくってやろう、ともくろむ者がいるからだ。
王立のカンタベルには、貴族や裕福な育ちの者が多く在籍するいっぽう、国庫出資による
学院では、貧しい者の成功をおもしろく思わない者が多いことも知った。奨学金で就学したにもかかわらず、学業を修めることなく去っていった者もいる。行動も、慎重にならざるをえない。
「ひとえに重要なものと言われましても対策を立てかねます。もしそれが危険な魔術なら、なおのこと」
任務の回避が難しいならば、できる限りを聞いておこうとしたところ、男の声が
「おいおい、馬鹿を申すな。君がそのことについて知る必要などないのだよ。それに意見など求めてはおらん。立場をわきまえたまえ!」
わたしはいったい誰と話しているのだろう。リラは唇を噛み、床を見つめるが、無事に帰る可能性まで狭めるわけにはいかない。顔を上げると身を乗り出した。
「何もわからないままウトロ村におもむいたところで、徒労に終わるだけだとは思われませんか! せめて――」
「リラ君!」
男は机を叩きつけた。不愉快な小娘の口答えを終わらせるためだ。肉厚な手が、耳をつんざく空気の震えをもたらすと、リラは肩を震わせ、身を縮める。
「もういちど言うが、君ごときが知らんでもいいことなのだよ。よしんば捜索中に知ったとしても、決して他の者に漏らしてはいけない。わかったね、このことは、くれぐれも肝に銘じておくように」
リラは、不審な言葉の裏にある、ただならない答えを感じた。
「ああ、それから、あやつのことを調べるのは君の好きにしてくれて構わんよ。任務には情報の収集が不可欠だろう?」
馬鹿げている! 口には出さなかったリラだが、学院を揺るがす一大事になりかねない時なのに、責任を負おうとしない態度に
勇気を奮い立たせ、食い下がろうと息を吸い込んだその時、甲高い声が割り込んだ。
「いいかねリラ君、考えてもみたまえ。貧しい君がこうして、のうのうと学院にいられるのも、我々が学費の面倒を見てあげたからだよ」
あまりにも唐突なためにリラは不意を突かれ、つぎに両耳を疑った。口を挟んだのは小役人のような丸眼鏡の小男だ。
「我々への恩返しとでも思ってくれたまえ」
何を言われているのか理解できない。就学は、王国から出された奨学金とリラのたゆまぬ努力の
「もし無事に役目を果たしえたときは、特例として返済義務の免除を考えてあげようではないか。君なんかにはもったいない話だと思わんかね?」
奨学金を返済するため、リラは学院で研究に従事していた。眼鏡の小男は、寛容さを見せようと唾を飛ばしつづける。懐が痛むわけではないし、何かを意図したものでもなかった。
「そうそう、もうずいぶんと長いあいだ、故郷のご両親にも会っていないそうじゃないか」
――なぜいまその話を……やめて!
吐き戻したい気持ちを懸命にこらえる。男の口が、遠く離れて暮らす家族のことを語り始めたからだ。リラは胸のうちを
「無事に役目が終わったら、どうだね? いちど会いにいってあげては」
足元が大きく揺らいだのは、彼女の切なる想いだったからだ。魔術の修行で
キャンタベリーの町より都を挟んで遥か、リラの生まれた貧しい山里。父や母は体を壊していないだろうか。弟たちは別れ際の幼い姿をとどめたままだ。そして、優しくほほえみかける老師の姿。
迷いや焦り、断ち切れない感情が鉛色の霧となり、脳裏に重たく立ち込めた。
はっきりしたことは、役目を受け入れざるをえない、という現実だ。命の危険をはらむのに、選ぶことも許されない立場の弱さを痛感し、力なく肩を落とした。
「明後日には学院をたつように。それ以上、時間を費やすことは許されないよ。あと、
甲高い声を最後に、一方的な話に終始した時間は終わる。
役員室から解放されてロビーにたどり着いた時、慣れ親しんだ空気に安堵したが、すれ違う学生たちのざわめきが、遠くに聞こえるのみだった。大扉をくぐると傾いた日差しに包まれるが、いまやリラの心は、まとう黒衣よりも暗くて深い迷宮の中にあった。