第八章 うごめく者たち(5)
文字数 2,279文字
空を覆っていたはずのこがね色は、西に広がる地平線の影へ、いまにも吸い込まれようとしている。灯火が白亜の中央棟を浮かび上がらせる。尖塔からの鐘の音が空気を震わせると、ねぐらを飛び出したコウモリたちが慌てた様子でひらひらと舞い始めた。
夕刻の鐘は昼の人々に安息を告げるが、闇夜にうごめく者たちにとっては一日の始まりを意味する。
暗色の衣を着た魔術師が、中央棟の大扉から前庭へつづく石段を駆け下りている。アーチをくぐり噴水の広場へ。帰路に就く人影を追い越すと、回廊にさしかかった所で足を止めた。腕を組み、考え込む脇を、追いついた者たちが通り過ぎて行く。
やがて魔術師は大きく息を吐き出すと、決心したように体の向きを変えた。
こがね色の残照に向かう後ろ姿を、慌てて追う人影がひとつ。いや、実際には、夕闇に溶け込んだようにその姿は見えず、足音と激しい息遣いを残すのみだった。
夕刻の鐘が鳴りやんだ頃、門番たちの勇壮な掛け声とともに、町の東門が今まさに閉じられようとしていた。するりと隙間から出ていく者がいたため、責任者がこぶしを突き上げて怒鳴り立てる。痩身の男は素っ気なく手を振って返すと、そのまま東に向かった。
郊外に住まう者たちが、疲れた足取りで家路を行くなかにあって、その男だけが旅装に身を固めていた。
日が没してからの出立だけでも奇妙なのに、肩に掛けた麻袋以外では、小型の湾刀を帯びるだけで、足元を照らすものさえ持っていない。町を出てしばらくは家の灯りがつづくとはいえ、よほど夜間のひとり旅に慣れているのだろうか。
男は他の人影に混じって、とぼとぼと歩いていたが、人家がまばらになった頃、あたりを見回し、突如として歩みを速めた。山猫を思わせるしなやかな足つきは、まるで闇と同化したように音を残さなかった。
時を同じくして、山脈を隔てた、湖畔の小さな漁村では、大波とともに現れた男たちのために、阿鼻叫喚のただ中にあった。川を荒らし回っていた海賊が初めて漁村に襲いかかったのだ。
うねり狂う波がいけすを破壊すると、舟で乗りつけた海賊たちは、干されていた刺し網を切り裂き、漁船や民家に火を放つなど荒々しく暴れまくった。しかし、金品の略奪はそこそこ、濃霧に紛れて早々と引き上げにかかる。
復讐に燃える村人は被害をまぬがれた舟に乗り込むと、手当たりしだいに漕ぎ出した。
足の速い一艘が海賊たちに追いついて、村いちばんの狩人が至近からの矢を射るが当たらない。直後、目には見えない凄まじい力が、追いすがる舟をひとつ残らず転覆させてしまった。
また、騒ぎのなか、逃げ惑う数名の村人が、黒塗りの剣を手にした男に容赦なく斬殺されたため、一連の騒動による初めての犠牲者が出る事態となった。
崩れた天井から差し込む月明かりが、広間の半分を青く照らし出す。扉口より現れた男が、背負ってきた荷物を土が積もる床へと下ろした。
老境に達して丸みを帯びるが、広い背中は若かりし日の強健さを残している。運んできたのは中身がぎっしりと詰まった厚手の麻袋で、足元のおぼつかない夜更けに、軽々と運べる代物ではなさそうだ。
ただ、その身を包むコートはみすぼらしく擦り切れて、顔は酒に漬かりきった果実のようにくたびれ果てている。闇夜に躍動する彼の動機を裏付けるには、いささか説明に乏しい。
広間の中央には丸い浴槽のようなものが口をあけており、それを見下ろす壇の机には、もうひとりの人物がいた。
「トツカヌか、ご苦労だったな。たいへんだったであろう」
まだ若い男だ。燭台に灯された魔術の光は、彼が着込んだ紫紺色の長衣を照らし出していた。卓上には広げられた巻物や陶器の小物、白い流木らしきものが雑然と並ぶ。
男は卓上の小袋を老人に向けて放り投げた。トツカヌと呼ばれた老人は、受け止めた袋の中を覗くと、不満げに懐へしまう。手袋でコートの泥を払い落すと、壇上に不審な目を向けた。
「なあ……こんなことをしていて、本当にあいつと会えるのだろうなあ?」
言いつつ石段を上がり、壇上の男に詰め寄ろうとするが、その目を見たとたん怯えたように足を止める。
「何を弱気になっているのだ。すべて順調に進んでいるではないか。おまえは才能のあるやつだから期待してやっているのだぞ」
男は、さして表情を変えずに老人を見据えて言い聞かせた。
「そ、そうだ、おれには力がある。そう言ってくれるのはあんただけだ。それに、酒を飲みてえから金がいる……。おれを狂人などと馬鹿にするやつらを、早いとこ見返してやりてえ」
頷く老人の顔には、くたびれ果てた容姿や年齢に見合わない自信が満ちていた。懐から取り出した酒瓶に口をつけて、いっきに飲み干すと、部屋の中央にある丸い窪みを見下ろした。若い男がほっとした様子でつけ加える。
「あれとは旧知の仲だったのだろう? また、近いうちに大きな仕事をやってもらう。そうすれば報酬もはずんでやろう」
「おれには酒を飲むな、とうるさい奴だったが、船頭を引退したとたん、自分が酒に溺れちまいやがった……。まったく、ざまあねえや」
皮肉な笑みを浮かべると、老人は酒瓶の口を片目で覗く。そして、壇を下りながら振り向き言い残した。
「疲れたんで先に休ませてもらうぜ、テルゼンさんよ。あんた、明日からまたしばらく留守にするんだろ? だったら、クイルツッカで上等のヌルイカを買ってきてくれねえか? 酒が切れちゃあ、ぐっすり眠ることもできねえんだ、おれは」
廃屋に差し込む月明かりが、テルゼンと呼ばれた男の目を冷たく光らせた。
第九章につづく
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