第四章 奔走(3)
文字数 3,237文字
「人格支配! 生贄……?」
リラは、つづく言葉を失った。
「
我々
魔術師が、踏み入ることも侵すことも決して許されない領域だ」深刻な面持ちのロスローに、リラは
古代、人の心を操る魔術は、奴隷の使役から、いくさに至るまで広く用いられたが、人格支配とはただならぬ響きだ。さらに、人知れず
また〈魔道〉では、ときに対価として魂や命を差し出す選択を迫られるという。魔法に基づく魔術と異なるそれは、異界の住人と交わす血の契約、つまり、魔人の召喚や使役といったものに近い。
過去、魔術師たちは
光の千年が終わり魔術が失われた時代でも、〈魔道〉の系譜は途絶えず、いまもどこかで潜みながら受け継がれているという。
底なし沼のような気分のリラに、痩せた魔術師の揚々とした声が届いた。
「我らがそのたくらみをあばいたのだ! やつは寛大な計らいで処罰をまぬがれたというのに、
おおかた、ロスロー属する評議会が阻止したのだろう。そのロスローが言う。
「彼も
この場にいない者へと向けた眼差しのまま、リラを見据えた。
「かわいそうだが、わたしが思うに君もなんら変わらない。卑しく、あわれな〈山の娘〉」
それだけ言うと、にわかに興味を失った様子でリラの脇を通り抜ける。大机に向かう広い背中をリラは振り返り睨みつけ、心の中で低く呟いた。
「本来ならばロスロー卿、あなたがおもむくべき任務だわ」
学院の関与を隠すためにも顔の通った者は役目に適さない、という理屈はわかるけれど、やはり釈然としない。
ロスローは、誰よりもエルトランに近いだけでなく、評議会の一員でもあるのに、リラに下された指示を知りもしないようだ。強い
あとにはなぜか、かすかな
あらためて室内を見まわすと、あきれるほど立派な空間が広がっていた。壁一面の書架をはじめ、一人ひとりに割り当てられた作業机、資料や魔術品の保管庫など、リラの望むすべてが揃っている。働く者は三十人を下らず、学院が寄せる期待の大きさをうかがい知れた。
傾いた〈第三・古代史研究室〉が、あばら家とからかわれるのもよく分かる。これだけ広ければ、太った室長に、すれ違いざまはじき飛ばされることも、長衣を引っかけて、積まれた木箱をひっくり返してしまうこともない。彼女がうらやむのはもっともだ。
「いつまでじろじろ盗み見ておる。どうやら本当に懲らしめてやらねばならぬようだな」
痩せた男が回り込み、リラの視界を遮った。杖を構えて見せるものの、薄い唇に浮かべていた慢心はすでに消えている。
ロスローがリラを見限ったからには、うんと下っ端である彼らは役目を果たさなくてはならない。のしかかる重圧は、リラにとって計り知れないものだった。
この場にとどまれそうにないけれど、聞きたいことは山ほどある。〈魔道〉に触れた者には、本来なら追放や魔術の消去といった厳しい処分が下される。寛大な計らいとはいえ、研究内容が
「なぜなの……なぜ書物を盗んだのが彼だってわかったの? 誰か目撃した人はいるのかしら。まさか、貧民街の生まれというだけで犯人だと決めつけられているのではないの?」
口走ってしまうが、まくし立てられたほうは
「きっと、彼は優秀だったはず。でも、自分より下の者にはつらく当たった……フルミドさんにしたように。あなたたちもひどい仕打ちを受けたのではないの? 杖でぶたれたりしたから恨んでいるんでしょ!」
余計なひとことだったが、こうなった以上、あとには引けない。
「そうよ、だから彼を恨む人は大勢いる。
痩せた男の頬がついに
「そんなもん知ったことか! 卑しいやつのこと、こそこそと盗みでも働いておったのだろう!」
なんだ、この無礼な女は! 話す内容は不明だし、一方的でやかましい。もうひとりの男も首から上を真っ赤にしてつづいた。
「そうだ! どこまでも下賎な女! 言うに事欠いて我々を侮辱するなど――」
言い終えないうちに、リラは杖を突き立てて、なりふり構わず声を荒らげた。
「――そもそも盗み出された書物って、いったいなんなの!? 彼を追いかけた人がふがいないせいで、こっちは本当にいい迷惑なのよ!」
矛先の違う怒りだとわかっているが、唯一残された手札のように叩きつけた。
あまりにもかみ合わない喧嘩じみた問答を、ある者は冷ややかな笑いで、ある者は目を丸くして見ている。ただひとりを除いて。
顔を歪めて〈山の娘〉を睨みつけたのはロスローだ。荒々しくつかんだ杖の音が響き渡ると、下働きの魔術師ふたりの顔を覆っていた怒りは、嵐におびえて巣穴へと逃げ帰る蟻のように引いていく。
痩せた男が懇願の色を浮かべた。察したリラが扉口へあとずさると、男たちは無言で扉に手をかける。額には汗が噴き出していた。
「その、ごめんなさい、でもありがとう。役員方も、あなたたちのご協力をきっと――」
ぶ厚い扉が、低い鼻をかすめそうな勢いで閉まる。
「――お喜びに……なると思うわ」
髪と黒衣が揺れたあと、何事もなかったように空間は隔てられた。
頬の熱さを感じると、目を閉じて深く息をつく。さんざん
ロスローの怒りの原因は不明だが、よもや、手ひどく
エルトランの印象を改める必要があった。リラとの意外な共通点を含め、複雑なものを抱えているからだ。人物を深く知るのも、なかなかに難しい。
ロスローによって語られた恐ろしい〈魔道〉だが、行く手を阻むことはないだろう。異端研究はエルトランの心の向きを示すもので、そこに意味があるわけだが、術の習得ともなれば、よほどの資質がない限り不可能だ。過度に恐れることで思考が硬直してしまわないよう冷静でありたい。
立ちはだかるとすれば、盗まれた書物や彼の得意とする魔術だが、どちらも不明なままだ。噂に聞く、吹雪の中で対峙して振り切られた追跡者とは誰なのか。魔術師ならば、きっと激しい応酬があったに違いない。
エルトランへとつづく道のりの全貌は見えないけれど、いまはこれでよしとしよう。彼女はいつしか歩幅を大きくしていた。
薄暗いロビーをさっそうと通り抜け、初夏の陽気のもとへ踏み出した。
「これは小さな一歩でも、きっと人類の明日へとつながる、意味ある一歩だ」
口をついたのは、災厄から逃げ延びた人々が過酷な航海を生き抜いて新天地を踏みしめた日に、英雄ポロイが側近に語ったとされる言葉だった。