第四章 奔走(3)

文字数 3,237文字

「疫病のように人から人へ、知らぬ間に拡大感染していく人格支配の魔術。さらに、生贄(いけにえ)をともなう対価の魔術、いや、もはや魔道と呼ぶべきだろう。それらが彼の没頭していた研究だよ」
「人格支配! 生贄……?」
 リラは、つづく言葉を失った。

魔術師が、踏み入ることも侵すことも決して許されない領域だ」
 深刻な面持ちのロスローに、リラは(うなず)くしかなかった。

 古代、人の心を操る魔術は、奴隷の使役から、いくさに至るまで広く用いられたが、人格支配とはただならぬ響きだ。さらに、人知れず伝播(でんぱ)する魔術が手に余る危険なものだということも想像に難くない。

 また〈魔道〉では、ときに対価として魂や命を差し出す選択を迫られるという。魔法に基づく魔術と異なるそれは、異界の住人と交わす血の契約、つまり、魔人の召喚や使役といったものに近い。
 過去、魔術師たちは幾度(いくど)となく異界との接触を試みては失敗し、侵入者を食い止めるために多くの犠牲を払ってきたのだ。
 光の千年が終わり魔術が失われた時代でも、〈魔道〉の系譜は途絶えず、いまもどこかで潜みながら受け継がれているという。

 底なし沼のような気分のリラに、痩せた魔術師の揚々とした声が届いた。
「我らがそのたくらみをあばいたのだ! やつは寛大な計らいで処罰をまぬがれたというのに、(あだ)でもって返すなどきわめて愚かなり!」
 おおかた、ロスロー属する評議会が阻止したのだろう。そのロスローが言う。
「彼も()い上がるのに必死だったのだろうが、まったくの迷惑だ。心の卑しさゆえに魔術師としての大義を(かろ)んじ、愚かで道理もわきまえない者だったよ……」
 この場にいない者へと向けた眼差しのまま、リラを見据えた。
「かわいそうだが、わたしが思うに君もなんら変わらない。卑しく、あわれな〈山の娘〉」

 それだけ言うと、にわかに興味を失った様子でリラの脇を通り抜ける。大机に向かう広い背中をリラは振り返り睨みつけ、心の中で低く呟いた。
「本来ならばロスロー卿、あなたがおもむくべき任務だわ」

 学院の関与を隠すためにも顔の通った者は役目に適さない、という理屈はわかるけれど、やはり釈然としない。
 ロスローは、誰よりもエルトランに近いだけでなく、評議会の一員でもあるのに、リラに下された指示を知りもしないようだ。強い矜持(きょうじ)を持つ彼のこと、耳にすれば自らの手で解決しようとするだろうか。

 あとにはなぜか、かすかな葡萄酒(ぶどうしゅ)の香りが残されたので、リラは首をかしげた。鼻は低いが嗅覚は鋭い。老師が隠していた酒をことごとく嗅ぎ当てるものだから、しまいにはあきれて舌を巻かれたほどだ。

 あらためて室内を見まわすと、あきれるほど立派な空間が広がっていた。壁一面の書架をはじめ、一人ひとりに割り当てられた作業机、資料や魔術品の保管庫など、リラの望むすべてが揃っている。働く者は三十人を下らず、学院が寄せる期待の大きさをうかがい知れた。

 傾いた〈第三・古代史研究室〉が、あばら家とからかわれるのもよく分かる。これだけ広ければ、太った室長に、すれ違いざまはじき飛ばされることも、長衣を引っかけて、積まれた木箱をひっくり返してしまうこともない。彼女がうらやむのはもっともだ。

「いつまでじろじろ盗み見ておる。どうやら本当に懲らしめてやらねばならぬようだな」
 痩せた男が回り込み、リラの視界を遮った。杖を構えて見せるものの、薄い唇に浮かべていた慢心はすでに消えている。
 ロスローがリラを見限ったからには、うんと下っ端である彼らは役目を果たさなくてはならない。のしかかる重圧は、リラにとって計り知れないものだった。

 この場にとどまれそうにないけれど、聞きたいことは山ほどある。〈魔道〉に触れた者には、本来なら追放や魔術の消去といった厳しい処分が下される。寛大な計らいとはいえ、研究内容が表沙汰(おもてざた)にされなかったのはなぜか。資料は間違いなく破棄されたのか。(うたぐ)りだすときりがない。

「なぜなの……なぜ書物を盗んだのが彼だってわかったの? 誰か目撃した人はいるのかしら。まさか、貧民街の生まれというだけで犯人だと決めつけられているのではないの?」
 口走ってしまうが、まくし立てられたほうは怪訝(けげん)な顔でたじろいだ。
「きっと、彼は優秀だったはず。でも、自分より下の者にはつらく当たった……フルミドさんにしたように。あなたたちもひどい仕打ちを受けたのではないの? 杖でぶたれたりしたから恨んでいるんでしょ!」
 余計なひとことだったが、こうなった以上、あとには引けない。
「そうよ、だから彼を恨む人は大勢いる。(おとしい)れるために誰かが無実の罪を着せたとか……。それに事件前、彼が旧敷地にいたっていう噂を聞くわ。しかも夜中に。あんな場所で何をしていたっていうの?」

 痩せた男の頬がついに痙攣(けいれん)を始めた。
「そんなもん知ったことか! 卑しいやつのこと、こそこそと盗みでも働いておったのだろう!」
 なんだ、この無礼な女は! 話す内容は不明だし、一方的でやかましい。もうひとりの男も首から上を真っ赤にしてつづいた。
「そうだ! どこまでも下賎な女! 言うに事欠いて我々を侮辱するなど――」
 言い終えないうちに、リラは杖を突き立てて、なりふり構わず声を荒らげた。
「――そもそも盗み出された書物って、いったいなんなの!? 彼を追いかけた人がふがいないせいで、こっちは本当にいい迷惑なのよ!」
 矛先の違う怒りだとわかっているが、唯一残された手札のように叩きつけた。

 あまりにもかみ合わない喧嘩じみた問答を、ある者は冷ややかな笑いで、ある者は目を丸くして見ている。ただひとりを除いて。
 顔を歪めて〈山の娘〉を睨みつけたのはロスローだ。荒々しくつかんだ杖の音が響き渡ると、下働きの魔術師ふたりの顔を覆っていた怒りは、嵐におびえて巣穴へと逃げ帰る蟻のように引いていく。

 痩せた男が懇願の色を浮かべた。察したリラが扉口へあとずさると、男たちは無言で扉に手をかける。額には汗が噴き出していた。
「その、ごめんなさい、でもありがとう。役員方も、あなたたちのご協力をきっと――」
 ぶ厚い扉が、低い鼻をかすめそうな勢いで閉まる。
「――お喜びに……なると思うわ」
 髪と黒衣が揺れたあと、何事もなかったように空間は隔てられた。

 頬の熱さを感じると、目を閉じて深く息をつく。さんざん(ののし)られただけでなく、リラも感情的になってしまい、思い通りに話を進めることはできなかった。
 ロスローの怒りの原因は不明だが、よもや、手ひどく叱責(しっせき)されているのではないか、などと、下働きたちの身の上を他人事のように案じつつ、研究棟の出口に向け、とぼとぼと歩き出した。

 エルトランの印象を改める必要があった。リラとの意外な共通点を含め、複雑なものを抱えているからだ。人物を深く知るのも、なかなかに難しい。
 ロスローによって語られた恐ろしい〈魔道〉だが、行く手を阻むことはないだろう。異端研究はエルトランの心の向きを示すもので、そこに意味があるわけだが、術の習得ともなれば、よほどの資質がない限り不可能だ。過度に恐れることで思考が硬直してしまわないよう冷静でありたい。

 立ちはだかるとすれば、盗まれた書物や彼の得意とする魔術だが、どちらも不明なままだ。噂に聞く、吹雪の中で対峙して振り切られた追跡者とは誰なのか。魔術師ならば、きっと激しい応酬があったに違いない。
 エルトランへとつづく道のりの全貌は見えないけれど、いまはこれでよしとしよう。彼女はいつしか歩幅を大きくしていた。

 薄暗いロビーをさっそうと通り抜け、初夏の陽気のもとへ踏み出した。
「これは小さな一歩でも、きっと人類の明日へとつながる、意味ある一歩だ」
 口をついたのは、災厄から逃げ延びた人々が過酷な航海を生き抜いて新天地を踏みしめた日に、英雄ポロイが側近に語ったとされる言葉だった。

 (つぶや)きながら去っていくリラの後ろ姿を、暗がりで談話していた者たちが眉をひそめつつ見送った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

おもな登場人物 ※五十音順


〈アトワーズ〉【四章 七章 九章】

学院の魔術師範を務めていた老人。出身とする漂泊の民トルシャンが、盗掘師たちの遠縁であることや、敷地の片隅に天幕を張って暮らしていたこと、毎度のようにリラをかばっていたことから、役員たちに「荒れ地生まれの変わり者」と煙たがられている。リラの師であるロウマンとは、過去の大いくさを生き抜いた戦友。リラに、亡くした娘の面影を見ていた。


〈アマダ〉【二章 五章】
リラが所属する〈第三・古代史研究室〉のすこし太った室長。「うだつの上がらない、あばら家の亭主」と揶揄されている。気さくで人懐っこそうな顔をしているが、がさつで繊細さなど持ち合わせてはいない。彼の衝動的な行動で研究員たちは振り回され、たびたび危険な目にあわされている。生まれは港町の裕福な商家だが、わけあって学者になる道を選んだ。


〈ウルイ〉【五章 九章】

〈第三・古代史研究室〉では最古参となる年配の魔術師で、独学による魔術は、なぜか探索に向いたものばかり。のんびりとした人柄だが、自由気ままな室長を諭すこともある。リラに対しては、とくに優しく接するようだ。アマダのせいで危機に瀕することの多い研究室の面々だが、彼のような、おっとりした者がどうやってくぐり抜けてきたのかは不明である。


〈エルトラン〉【一章~】

学院の書庫に侵入して重要な書物を盗み出した男。高位魔術研究室に所属する優秀な魔術師であるが、異端魔術の研究に手を染めていたという噂が絶えない。吹雪の中での追撃を振り切ったあとは行方をくらませているが、東の森林地帯に潜伏し、ウトロの事件に関わっているのではないか、と目されている。出自についても諸説あり、得体の知れない人物である。


〈ジュナン〉【二章 三章】
冒険者の一団に属する駆け出しの剣士。魔物退治のあと、しばらくリラと行動を共にする。一人前だと認められたいがために護衛の役目を不服がったり、戦いを前に緊張した表情を見せたりするなど、初々しさの抜けない彼女だが、どこで身につけたのか、洗練された剣の腕をもつ。また、ドラゴンに襲われて生き延びたのだから、強運の持ち主というほかない。

〈ネイドル〉【一章 三章 四章】
カンタベルの運営に関わっている重役員だが、魔術や学問への造詣は深くない。リラを呼びつけて威圧的な態度で書物奪還を指示した。腹いせのために〈成金趣味、もしくはむっつり顔〉と名付けられていることを本人は知る由もない。貴族会という目の上のこぶとエルトランの事件に悩まされているが、彼の関心はもっぱら、美術品の収集や美食に向けられている。

〈フルミド〉【三章 五章 八章】
学院に雇われて半年となる初老の用務係。役員の遣いでリラの研究室を訪れ、本部中央棟への呼び出しを告げた。生気に乏しい風貌からは想像できない、器用さと気配りの細やかさをもち合わせている。噂話が好きで人間観察を趣味とするため、リラに助言したり、そのうろたえる姿を見て楽しんだり。さらには、任務に向けた足掛かりをリラに与えることとなる。

〈ボナルティ〉【一章 三章 四章 八章】
いつもネイドルの背後に控えている丸眼鏡の小男。彼も同じく役員の地位にあるが、金切り声でわめき立てる姿は、まるで口うるさい官吏だ。リラが、単なる腰巾着だろう、と見て油断したのも無理はない。彼の言い分はこうだ。ただ飯を食わしてやっているのだから恩を返せ。さらに返済金の免除と帰郷の許しという甘美な言葉で、リラの反抗心を完全にくじいた。

〈マレッタ・トウヤ〉【六章】
カンタベル学院に勤めて二十余年、学生食堂の厨房を仕切る調理人である。口達者で腕っ節が強く、たとえ貴族の子弟であろうが容赦せずに叱りつけるため、学生たちに恐れられていた。容姿についての表記は少ないが、大勢からの求婚を受けたことがあり、力強い人間性とも相まって魅力的な人物のようだ。我が子と同年代のリラとは、固い友情で結ばれている。

〈リラ〉【序章~】    
カンタベル学院で歴史研究に従事する魔術師。険しい山に囲まれたクルルの里で生まれ育つが、放浪の老魔術師に才能を見出されたことから山を下り、同学院において魔術を学んだ。故郷の山道で鍛えられた俊敏性と、丈夫な体をもつ。本人は慎重派だと主張するが、根っからの研究者体質で、とかく興味が先走るため、周囲の見解が必ずしも一致するとは限らない。

〈ロウマン〉【序章 二章 五章】
放浪の果て、クルルの里にやってきた老魔術師。山での厳しい暮らしを送る人々の支えとなるべく里の外れに住み着いた。そこで出会った少女の才能を見出し、弟子に迎える。医術にも長けているが、魔術しかり「世の中には万能なものなど存在しない」と弟子を諭す。また、学院で魔術師範を務めるアトワーズとは、過去のいくさにおいて生死を共にした仲だった。

〈ロスロー〉【四章】

立派な体格をした、学院でも屈指の実力をもつ魔術師。攻撃魔術の達人であり、学院内外で立てた功績によって称号を授与されている。貴族の出身であることを誇示しないなど、自らには徹底した実力主義を課すいっぽう、伝統や格式を重んじる傾向は強い。最近、酒館で朝まで飲む姿が目撃されている。ふだん堅物なだけあって、酒が入ると面倒な人物に違いない。

その他の登場人物 ※五十音順


〈ヴィルジット〉【二章 三章】

重役員のネイドルによって、リラに与えられた偽名。冒険者協会の証書には剣士とある。

 

〈カドマク・ニルセン〉【五章】

ウトロの山奥で金脈を発見した探検家。四度目の探索では、部隊もろとも消息を絶った。

 

〈セノルカ・バリン〉〈ベイケット・クラン〉〈オハラス〉【八章】

二十年ほど前の除名者記録では「学院条例の著しい違反のために処分となった」とある。

 

〈ゼラコイ〉【二章 八章】

閲覧室に猫を放ったり、戦場魔術の廃止を訴えたりした魔術師。消えた賢者として有名。

 

〈チャドリ〉【六章】

学舎の厨房において食材庫の管理を任されている。ものぐさだが、料理長の信頼は厚い。

 

〈テルゼン〉【八章】

トツカヌと話していた若い魔術師。紫紺色の長衣を着ており、身分が高い人物のようだ。

 

〈トツカヌ〉【八章】

立派な体格をした老人。テルゼンには不満げな態度を見せる。酒を飲まないと眠れない。

 

〈ナージャ〉【七章】

アトワーズの教え子。六年前に卒業していることから、リラよりすこし上級生のようだ。

 

〈ブルニ〉【八章 十章】

いくさでの悲惨な経験がもとで人間不信に陥った守衛の老人。リラにはすこし心を開く。

 

〈ベルカ〉【五章】

アマダと共に、歴史研究に従事している学者。思慮の欠ける室長に詰め寄ることがある。

 

〈ポロイ〉【二章 五章 八章】

二千年前の災厄にて大船団を率い、滅亡寸前まで追い込まれた人類を新大陸へと導いた。


ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み