第二章 帰る場所(2)
文字数 2,910文字
山の遺跡に棲みついたという魔物たちは夜の闇を活動の場とするため、人間たちは日の出を待って集落を出発した。
道を外れてからは
斜面を上るにつれ、せせらぎは鳥のさえずりに打ち消されていった。この先に魔物が巣くっているとは思えないのどかさだった。
リラは集団の後方を歩くが、そのなかには魔術を習得した者がいる。魔術師であることを示す長衣姿ではなかったため、今朝になってから気がついたのだ。その男が携える杖は奇妙に曲がりくねっており、わずかにねじれながらも、すらりと伸びるリラの杖とは対照的だ。
すぐ目の前を行くのは日に焼けた
右側には、リラとさほど歳の離れていない女性がいて、細身の剣を帯び、黙々と斜面を進む。先頭を固める男たちに比べるとかなりの軽装だ。剣を扱うのに邪魔なのか、頭を守る防具より、はみ出る髪は短く切られている。
リラが親しみを覚えたのは、呪文の詠唱を妨げないよう、髪を伸ばさない自分に似ていると思ったからだ。剣士はリラを護衛する役目を兼ねて集団の後方を任されていたが、その横顔は、子守りを押しつけられた、とふてているようにも見えた。
リラも、守られる立場にある自身のふがいなさを
――わたしだって戦いの訓練を受けているのよ……。それに、山道を走るのだったら誰にも負けない。
ところが歩くうちに、故郷の子供たちと魔物退治や宝探しの真似事をして遊んだ日々を思いだしていた。もっぱら、棒きれ片手に勇ましい騎士はリラの役だ。十歳の夏、
斜面を登りきると尾根にさしかかる。尾根といっても雑木林に覆われているため、魔物にこちらの接近を知られることはない。
冒険者たちは、不用意に敵地へと踏み込むような真似はしなかった。痩身の男が軽い足取りで先行し、遺跡には見張りがいないことを確かめる。敵は夜の活動に備えて日陰で睡眠をとっているのだ。人間たちはすみやかに行動を開始した。
屈強な戦士たちが、歩みを止めて振り向くと目で合図を送ってきた。なるほど、茂みのあいだから人工物らしきものが覗く。目的とする遺跡が姿を現したのだ。
リラの横にいた女剣士が身をひるがえし、背後の木々に向かって剣を抜き放ったのはその時だ。
思い出に浸っていたことを恥じる間もなく、リラも身構える。呪文を
ざらついた気配を空気が運ぶ。魔物たちはいま、遺跡で身を休めているのではなかったのか? 汗が額を伝った。
木陰から飛び出た人影が、瞬く間に視界を覆うと、不気味に光るものが頭上から振り落とされる。瞬間の出来事にリラの時間は停止している。火花と金属音につづく鈍い音がその命をつなぎ止めた。
身を投げ打ってリラを救ったのは女剣士だ。体勢を崩しながら声を張り上げる。
「下がりな!」
自らは素早い動作で、人の形をした醜悪な敵に剣を構え直す。
強い敵意を放つ
集落で得た情報を信じるとすれば、この、ずんぐりと人の形をした魔物がゴブリンと呼ばれる種族だ。頭部のつくりまで人間と似通うものの、より中央にあいた両目が獣のように
彼らは腕利きの戦士にとって脅威たりえなく、丸い背中を伸ばしたところで丈は人間の肩にも届かないが、動揺しきったリラの目には強大に映った。
このままだと足手まといになってしまう。とっさに後方へ跳び退いたところ、足がもつれてころんでしまい、露出した岩でしたたかに頭と腰を打ちつけ短くうめく。隣にいた痩身の男に引き起こされたあとは、息が止まりそうな痛みをこらえつつ状況を見守るしかなかった。
突進をはね返されたゴブリンが体勢を立て直そうとしたところへ、女剣士が滑るような足取りで迫る。意気込み唸るゴブリンの潰れた鼻先に牽制を入れ、武器を構えることさえ許さない。力量は目を見張るほどだった。
引き返してきた戦士たちがリラの両側を走り抜け、それぞれ木陰から現れた別の敵に剣を構える。人間たちを背後から襲ったのはゴブリンの群れだった。集落で聞くところによると、遺跡に巣くう個体数は十体に満たないという。
ゴブリンたちにしても、空腹に耐えかねて――とはいえ、彼らは常に腹をすかせているが――狩りに出かけた帰り道の、思いもよらぬ鉢合わせだった。日光の下での活動が、忌むべき昼の世界を闊歩する、醜悪な人間たちとの遭遇をもたらした。
棲みかを荒らそうと目論む侵略者どもを、ひとりたりとも生かして帰さない。今ここに、部族の存亡を賭けた戦いの幕が切って落とされた。
一族のなかでもっとも勇敢な若者が真っ先に敵へと切りかかり、あとの者がつづく。
人間たちは目前の脅威を取り除くために力を尽くしている。ただ、茂みが邪魔で戦いを優位に運べない。
「何匹いるんだ!」
苛立たしげに誰かが叫んだ。
「わからない!」
焦りを帯びた人間の声と、ゴブリンの怒号とが入り混じる。茂みの中を慌ただしく行き交う音、激しい息づかい、時折聞こえる金属同士が打ち合う響きで時間と空間が飽和されていく。
リラの横で目を凝らしていた痩身の男が叫ぶ。
「やつらは全部で七匹だ! 遺跡まで行けるか? 壁だ、遺跡の壁を使うぞ!」
彼は先ほど遺跡まで足を運び、遠巻きに偵察を行なっている。遺跡の構造が利用できることを仲間たちに伝えたのだ。襲いかかってきたゴブリンは七体、つまり遺跡はもぬけの殻だ。
人間たちは後退を始めたが、しつこく追いすがる相手に手を焼いた。
半狂乱の戦意を見せていたゴブリンたちだったが、絞り出すような絶叫が木々の枝を震わせると色を失った。胸と背中を赤く染めた一体が、滑るように斜面を跳ね、無造作にころがり落ちていく。
「いまだ、逃げちまえ!」
先に動いたのは人間たちだ。仲間うちで〈先生〉と呼ばれる戦士が、剣先についた血を振り落とし、よく通る声を響かせた。
かくして一行は遺跡への退却を果たす。リラはといえば、打ちつけた腰を押さえながら、群れに従って逃げる鹿のように、ついていくのがやっとだった。