第九章 月夜の廃墟にて人の縁に感謝する(6)

文字数 2,737文字

「ベイケット……クラン……閲覧室の記録にあった名前だ!」

 詳しくはわからないけれど、除名者のなかに、その名があったことを思いだす。すると、残された物品を一つひとつ手に取っていたウルイがいきなり大きくむせ込んだ。

「ベイケット・クランだって? 異端研究がもとで除名された魔術師じゃないか。おそらく、二十年も前に失踪(しっそう)した人物だよ……」
 若い頃のマレッタに言い寄ったあと、問題を起こして出奔(しゅっぽん)したという魔術師に違いない。杖は、その男が学生時代に使用したものだろうか。リラは握った杖をじっと見つめる。それが、つい先刻まで所有者の手にあったかのような気がした。

「たしか、記録には著しい条例違反と書かれていたわ。いなくなったって、いったい、昔に何があったの?」
「アトワーズ師匠に拾われて、学院で働き始めた年だったからよく覚えているんだ。わたしなんて、それはもう、痩せ細っていてねえ。さっきも言ったけど、本当に野垂(のた)れ死ぬ寸前だったんだよ。生きているありがたさに、これでもかと感謝したもんさ」
「……?」
 リラは怪訝(けげん)そうに小首をかしげ、逸脱(いつだつ)していく話題を引き戻した。
「えっと、そうそう。あれは突然の大騒ぎだった。この冬に起きたエルトランの事件みたいにね。そのベイケット・クランが異端研究に手を出していたことが発覚して、ひと悶着(もんちゃく)あった末に姿をくらましたという話さ」

 話す内容に気を取られ、リラは、それとなく見つめる視線には気がつかなかった。
「それじゃあ、この隠し部屋を使っていたのは、二十年も昔の人なの? ますます見当がつかない――」
 当てが外れたために、最初から考え直さなくてはいけないのだろうか。リラは両腕で杖を抱き込み、低く唸った。

「――でも、マレッタが言っていた自信過剰な魔術師に間違いないわ。ウルイさんは、ベイケット・クランっていう人のことを知っているの?」
「いちどだけ会ったことがあるんだ。おおむね、君の言う通りだよ。若くして成功を手にしているような……。お世辞にも好人物とはいえないけど、異端研究に手を伸ばすなんて、そんなふうには見えなかったなあ」
「いったいどんな研究だったのかしら。騒ぎはそのあと、どうなったの?」
 黒猫の記憶は古いものではないため、最近まで隠し部屋に訪れていたのを仮にエルトランだとした場合、ベイケット・クランとのあいだに何かしらの接点があったと考えられないだろうか。両者には、異端研究という何よりの共通項があるのだ。

「さあ……。詳細はわからないまま、いつしか誰も口にしなくなったんだ。これも冬の事件と似ているね。聞けば、結界を破ろうとしての侵入だったって話だよ。そのころさ、学院には知られちゃまずい禁書庫があるんじゃないか、という噂が立ったのは」
「また結界! それに禁書庫も……。なぜ、こうも怪しいことだらけなのかしら」
 閲覧室の記録を調べた時には、結界術に秀でたエルトランが、禁書庫への侵入を果たしたのだと仮定したものの、両者の行いは、なんとも似通っている。「じつはね……」とウルイが声を低くしたため、リラはごくりと息を呑んだ。
「ベイケット・クランの事件より、ずっと前にも侵入未遂があったそうなんだよ。その時の犯人はチャタンでの発見を境にして、まるで人が変わってしまった、という噂があったみたいだけどね」

 ただし、カンタベルに来るより前のことなので、ウルイも詳しくないようだ。興味はあるが、危うきに近寄らず、なのだと言う。そして、事件はいつの間にか忘れられたことをつけ加えた。
「噂づくしね……。なんだか、すっきりしないことばかり増えていくわ」
 リラは、肩の力を抜いて苦笑い。考えの及ばないことが多すぎる。
「確かにね。でも、火のない所に煙は立たないとも言うし、いずれかが真実だということも考えられるんじゃないかな」

 この隠し部屋だが、もともとは暗渠(あんきょ)を管理するための資材置き場だったようだ。モルタルの材料や工具類、雑多な瓦礫(がれき)だけでなく、暗闇での作業に必須のカンテラさえも片隅へと追いやられているのは、部屋の使用者がその灯りを必要としなかったからだろう。

 二十年以上も前にはベイケット・クランが、春先まではエルトランが出入りしていたとしても、異端魔術師たちはこの場所で何を(くわだ)てようとしたのだろうか。ひとりで研究に没頭していたとすれば、ここが彼らにとって、瞑想(めいそう)のための円塔ともいえる。

 壁際には裏付けるように、簡素なつくりの長机が置かれていた。リラは、その上にある広口のガラス瓶に目を留める。空っぽだが底には何かの粉末が残されていた。
 ――魔術の触媒(しょくばい)だ。まずはひとつ手がかりを見つけた。
 蓋をあけて鼻を近づけたリラは突然、崩れるようにかがみ込む。手で口元を覆い、ある衝動をこらえていると目に涙が浮かんだ。
 それが干し魚のかけらで、エルトランの私室にてかすかに感じた匂いと一致することを、黒猫の証言の正しさを、彼女はいちどに知ることができたのだった。

 いっぽうのウルイは、古物や魔術品に造詣(ぞうけい)があるため、部屋中を興味深げに調べ回っていたが、見るものなどないと思われた瓦礫の中から何かを拾ってくる。
(にら)んだ通りだよ。ベイケット・クランとは限らないけど、ここを使っていた人物は、やはり結界魔術を心得ているね」
 手に乗せたものへと何度も息を吹きかけたせいでほこりが舞い、リラは小さく咳き込んで表情をむっとさせた。手渡されたのは小さな陶器の人形だった。

 困ったように首をひねった座像で、渦巻き模様の目や、口から伸びた長い舌が愛嬌を感じさせる。昼間、エルトランの私室に忍び込んだ時は気にも留めなかったが、そこで見つけた人形と似ていた。表面には、やはり焼き締められた跡がある。
「これとそっくりなものを見たことがあるけれど、魔術品だったのね。でも、どうしてそんな事までわかるの?」
 不思議そうに聞き返すと、ウルイは手ごたえありと思ったのか、得意気に鼻を膨らませた。
「この陶器は、結界の構築や仕掛けの魔術で使われる、とても古い術具なんだ。入口の扉に結界を施したのも、土人形に刻まれた呪文に手を加えたのも同じ人物だと見るべきだよ」
 ウルイは、難しい顔をするリラに、土人形には結界や仕掛けの魔術が応用されていることを話し、軍用化には程遠いはずの代物に、侵入者への攻撃をさせるよう編集した手腕はたいしたものだ、とあらためて感じ入った。

「つまりは、なかなかの実力者ってことなのね……」
 やはり、過去にはベイケット・クランが、新しくはエルトランが隠し部屋を使用していたとして、両者に間接的な交わりがあった可能性は無視できない。結論は得られなかったが、推量が間違った方向へ進んでいるとも思わなかった。
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登場人物紹介

おもな登場人物 ※五十音順


〈アトワーズ〉【四章 七章 九章】

学院の魔術師範を務めていた老人。出身とする漂泊の民トルシャンが、盗掘師たちの遠縁であることや、敷地の片隅に天幕を張って暮らしていたこと、毎度のようにリラをかばっていたことから、役員たちに「荒れ地生まれの変わり者」と煙たがられている。リラの師であるロウマンとは、過去の大いくさを生き抜いた戦友。リラに、亡くした娘の面影を見ていた。


〈アマダ〉【二章 五章】
リラが所属する〈第三・古代史研究室〉のすこし太った室長。「うだつの上がらない、あばら家の亭主」と揶揄されている。気さくで人懐っこそうな顔をしているが、がさつで繊細さなど持ち合わせてはいない。彼の衝動的な行動で研究員たちは振り回され、たびたび危険な目にあわされている。生まれは港町の裕福な商家だが、わけあって学者になる道を選んだ。


〈ウルイ〉【五章 九章】

〈第三・古代史研究室〉では最古参となる年配の魔術師で、独学による魔術は、なぜか探索に向いたものばかり。のんびりとした人柄だが、自由気ままな室長を諭すこともある。リラに対しては、とくに優しく接するようだ。アマダのせいで危機に瀕することの多い研究室の面々だが、彼のような、おっとりした者がどうやってくぐり抜けてきたのかは不明である。


〈エルトラン〉【一章~】

学院の書庫に侵入して重要な書物を盗み出した男。高位魔術研究室に所属する優秀な魔術師であるが、異端魔術の研究に手を染めていたという噂が絶えない。吹雪の中での追撃を振り切ったあとは行方をくらませているが、東の森林地帯に潜伏し、ウトロの事件に関わっているのではないか、と目されている。出自についても諸説あり、得体の知れない人物である。


〈ジュナン〉【二章 三章】
冒険者の一団に属する駆け出しの剣士。魔物退治のあと、しばらくリラと行動を共にする。一人前だと認められたいがために護衛の役目を不服がったり、戦いを前に緊張した表情を見せたりするなど、初々しさの抜けない彼女だが、どこで身につけたのか、洗練された剣の腕をもつ。また、ドラゴンに襲われて生き延びたのだから、強運の持ち主というほかない。

〈ネイドル〉【一章 三章 四章】
カンタベルの運営に関わっている重役員だが、魔術や学問への造詣は深くない。リラを呼びつけて威圧的な態度で書物奪還を指示した。腹いせのために〈成金趣味、もしくはむっつり顔〉と名付けられていることを本人は知る由もない。貴族会という目の上のこぶとエルトランの事件に悩まされているが、彼の関心はもっぱら、美術品の収集や美食に向けられている。

〈フルミド〉【三章 五章 八章】
学院に雇われて半年となる初老の用務係。役員の遣いでリラの研究室を訪れ、本部中央棟への呼び出しを告げた。生気に乏しい風貌からは想像できない、器用さと気配りの細やかさをもち合わせている。噂話が好きで人間観察を趣味とするため、リラに助言したり、そのうろたえる姿を見て楽しんだり。さらには、任務に向けた足掛かりをリラに与えることとなる。

〈ボナルティ〉【一章 三章 四章 八章】
いつもネイドルの背後に控えている丸眼鏡の小男。彼も同じく役員の地位にあるが、金切り声でわめき立てる姿は、まるで口うるさい官吏だ。リラが、単なる腰巾着だろう、と見て油断したのも無理はない。彼の言い分はこうだ。ただ飯を食わしてやっているのだから恩を返せ。さらに返済金の免除と帰郷の許しという甘美な言葉で、リラの反抗心を完全にくじいた。

〈マレッタ・トウヤ〉【六章】
カンタベル学院に勤めて二十余年、学生食堂の厨房を仕切る調理人である。口達者で腕っ節が強く、たとえ貴族の子弟であろうが容赦せずに叱りつけるため、学生たちに恐れられていた。容姿についての表記は少ないが、大勢からの求婚を受けたことがあり、力強い人間性とも相まって魅力的な人物のようだ。我が子と同年代のリラとは、固い友情で結ばれている。

〈リラ〉【序章~】    
カンタベル学院で歴史研究に従事する魔術師。険しい山に囲まれたクルルの里で生まれ育つが、放浪の老魔術師に才能を見出されたことから山を下り、同学院において魔術を学んだ。故郷の山道で鍛えられた俊敏性と、丈夫な体をもつ。本人は慎重派だと主張するが、根っからの研究者体質で、とかく興味が先走るため、周囲の見解が必ずしも一致するとは限らない。

〈ロウマン〉【序章 二章 五章】
放浪の果て、クルルの里にやってきた老魔術師。山での厳しい暮らしを送る人々の支えとなるべく里の外れに住み着いた。そこで出会った少女の才能を見出し、弟子に迎える。医術にも長けているが、魔術しかり「世の中には万能なものなど存在しない」と弟子を諭す。また、学院で魔術師範を務めるアトワーズとは、過去のいくさにおいて生死を共にした仲だった。

〈ロスロー〉【四章】

立派な体格をした、学院でも屈指の実力をもつ魔術師。攻撃魔術の達人であり、学院内外で立てた功績によって称号を授与されている。貴族の出身であることを誇示しないなど、自らには徹底した実力主義を課すいっぽう、伝統や格式を重んじる傾向は強い。最近、酒館で朝まで飲む姿が目撃されている。ふだん堅物なだけあって、酒が入ると面倒な人物に違いない。

その他の登場人物 ※五十音順


〈ヴィルジット〉【二章 三章】

重役員のネイドルによって、リラに与えられた偽名。冒険者協会の証書には剣士とある。

 

〈カドマク・ニルセン〉【五章】

ウトロの山奥で金脈を発見した探検家。四度目の探索では、部隊もろとも消息を絶った。

 

〈セノルカ・バリン〉〈ベイケット・クラン〉〈オハラス〉【八章】

二十年ほど前の除名者記録では「学院条例の著しい違反のために処分となった」とある。

 

〈ゼラコイ〉【二章 八章】

閲覧室に猫を放ったり、戦場魔術の廃止を訴えたりした魔術師。消えた賢者として有名。

 

〈チャドリ〉【六章】

学舎の厨房において食材庫の管理を任されている。ものぐさだが、料理長の信頼は厚い。

 

〈テルゼン〉【八章】

トツカヌと話していた若い魔術師。紫紺色の長衣を着ており、身分が高い人物のようだ。

 

〈トツカヌ〉【八章】

立派な体格をした老人。テルゼンには不満げな態度を見せる。酒を飲まないと眠れない。

 

〈ナージャ〉【七章】

アトワーズの教え子。六年前に卒業していることから、リラよりすこし上級生のようだ。

 

〈ブルニ〉【八章 十章】

いくさでの悲惨な経験がもとで人間不信に陥った守衛の老人。リラにはすこし心を開く。

 

〈ベルカ〉【五章】

アマダと共に、歴史研究に従事している学者。思慮の欠ける室長に詰め寄ることがある。

 

〈ポロイ〉【二章 五章 八章】

二千年前の災厄にて大船団を率い、滅亡寸前まで追い込まれた人類を新大陸へと導いた。


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