第一章 日常はついえ 魔術師は悲嘆に伏す(2)

文字数 1,693文字

 役員室は一介の研究員にとって縁のない場所だ。リラは学院で暮らして十年になるが、いちども訪れたことはないし、近寄りたいとも思わなかった。

 重厚な(かし)扉を押しあけると長毛の絨毯(じゅうたん)がつづいていた。室内は、絢爛(けんらん)な絵付けの磁器や、金箔(きんぱく)で仕上げられた彫像といった美術品が、うんざりするほどにあふれ返っている。
 待ち受けるふたりが学院の運営に深く関わっているのはもちろん、決して相容(あいい)れない人物だということも知っていた。

 恰幅(かっぷく)のよい男が、むっつりと肘掛け椅子に沈み込んでいる。もうひとり、脇に控える丸眼鏡の小男は、くどくど口やかましい官吏(かんり)にしか見えない。どちらも重役員の地位を占める人物だが、リラは小役人のような男のほうをただの腰巾着(こしぎんちゃく)だろうと軽く見た。

 いっぽうの彼女は、墨染(すみぞ)め色をした長衣(ちょうい)で身を包む。袖には、山岳に()むといわれる獣を形どった縫い取りがされていた。裾より覗くつま先は肩の幅に開かれて、作法にうるさい者が見れば目を覆ったに違いない。
 髪は漆黒(しっこく)(わずら)わしそうに短く切られ、首から肩を不躾(ぶしつけ)に隠すばかり。おまけに、充血した目の下には

を浮かべている。長衣と、左手にした木製の長い杖が、学院における身分を表していた。
「クルルの里のリラです。ご用件を(うかが)うために急ぎ参りました」

 恰幅のよい男は足を机の横へ放り出すように組み、リラに対しては(はす)に構えている。一瞥(いちべつ)するとため息をつき、これ見よがしに口角を引き下げた。
 大事な研究のさなか、不意に呼びつけたのは彼らのほうだ。気持ちを鎮めてここまで来たのに横柄な態度はどういうことか。

「よく来たな。こうやって話すのは初めてだったかね」
 呼びつけたからには無視もできない、と言いたげだ。リラはゆっくりと顎を引き、身を硬くする。男の口からは、ある出来事が語られた。
「君もよく知っての通りだ。研究員

エルトランが、我がカンタベル学院の書庫より、魔術の研究を記した書物を盗み出し、そのまま行方をくらませおった」

 事件の発生は数ヶ月をさかのぼる。リラは、まだ雪が残るその日も研究室にこもり、積み上がった資料と格闘していたのを覚えている。
 かねて異端(いたん)研究者と噂される男が重要な魔術書を盗み出した、という知らせで学院中が騒然となった。犯人は吹雪の中を追手から逃げおおせた、という噂が流れると、研究成果を他校に売り渡したに違いない、などと言いだす者まで現れた。
 やがて雪は解け、学生や研究員はそれぞれの課題や業務に向かう日々がつづいた。

 記憶をたどるリラの耳に、同意を強いるような声が響く。
「エルトランの所業を決して許すわけにはいかない。君も学院に雇われる身であるからには、自らの責務を心得ているだろうね?」
 リラは(うなず)き、深く吸い込んだ息を気取られないように吐き出す。ペンダントを握り締めた手に、早くなった鼓動が伝わった。

「我々としては何ひとつ手がかりがなく、お手上げであったところ、ウトロ村より奇妙な知らせが届いたのだ」
「奇妙な知らせ……ですか?」
 ウトロは、学院が置かれるキャンタベリーの町よりも、ずっと東の山中にあり、リラも学術調査の道中に何度か立ち寄っている。
「住人の失踪(しっそう)事件だよ。また、失踪との関連は知らぬが、本来は無人である廃屋の屋敷で、なにやら人の気配がするのだそうな」

 もはや、世間話などではない。
 全身に緊張が広がるとともに、リラはすこし首をかしげた。ウトロには屋敷と呼べる立派な家屋などないからだ。湧き出る温泉に集まる湯治(とうじ)客や、聖地への巡礼(じゅんれい)者、そして材木の切り出しを生業とする者が多い、片田舎の素朴な村だったはず。
()せた男が単騎、ウトロの方角へ向かったという情報もつかんでおる。この件にエルトランめが関与している可能性を考慮すると、我がカンタベル学院が動かんわけにはいくまい」
 男は自らの説明に頷き、リラの顔をかすめるように見る。足をほどいて向き直ると、指先で小刻みに机を鳴らしながら言い渡した。

「そこでだ、ウトロ村の事案の調査もしくは解決を君に命ずる。もしあの裏切り者の所在をつかんだ場合は、よいか、危険を冒してでもやつを捕縛(ほばく)し、書物を奪還せよ」
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登場人物紹介

おもな登場人物 ※五十音順


〈アトワーズ〉【四章 七章 九章】

学院の魔術師範を務めていた老人。出身とする漂泊の民トルシャンが、盗掘師たちの遠縁であることや、敷地の片隅に天幕を張って暮らしていたこと、毎度のようにリラをかばっていたことから、役員たちに「荒れ地生まれの変わり者」と煙たがられている。リラの師であるロウマンとは、過去の大いくさを生き抜いた戦友。リラに、亡くした娘の面影を見ていた。


〈アマダ〉【二章 五章】
リラが所属する〈第三・古代史研究室〉のすこし太った室長。「うだつの上がらない、あばら家の亭主」と揶揄されている。気さくで人懐っこそうな顔をしているが、がさつで繊細さなど持ち合わせてはいない。彼の衝動的な行動で研究員たちは振り回され、たびたび危険な目にあわされている。生まれは港町の裕福な商家だが、わけあって学者になる道を選んだ。


〈ウルイ〉【五章 九章】

〈第三・古代史研究室〉では最古参となる年配の魔術師で、独学による魔術は、なぜか探索に向いたものばかり。のんびりとした人柄だが、自由気ままな室長を諭すこともある。リラに対しては、とくに優しく接するようだ。アマダのせいで危機に瀕することの多い研究室の面々だが、彼のような、おっとりした者がどうやってくぐり抜けてきたのかは不明である。


〈エルトラン〉【一章~】

学院の書庫に侵入して重要な書物を盗み出した男。高位魔術研究室に所属する優秀な魔術師であるが、異端魔術の研究に手を染めていたという噂が絶えない。吹雪の中での追撃を振り切ったあとは行方をくらませているが、東の森林地帯に潜伏し、ウトロの事件に関わっているのではないか、と目されている。出自についても諸説あり、得体の知れない人物である。


〈ジュナン〉【二章 三章】
冒険者の一団に属する駆け出しの剣士。魔物退治のあと、しばらくリラと行動を共にする。一人前だと認められたいがために護衛の役目を不服がったり、戦いを前に緊張した表情を見せたりするなど、初々しさの抜けない彼女だが、どこで身につけたのか、洗練された剣の腕をもつ。また、ドラゴンに襲われて生き延びたのだから、強運の持ち主というほかない。

〈ネイドル〉【一章 三章 四章】
カンタベルの運営に関わっている重役員だが、魔術や学問への造詣は深くない。リラを呼びつけて威圧的な態度で書物奪還を指示した。腹いせのために〈成金趣味、もしくはむっつり顔〉と名付けられていることを本人は知る由もない。貴族会という目の上のこぶとエルトランの事件に悩まされているが、彼の関心はもっぱら、美術品の収集や美食に向けられている。

〈フルミド〉【三章 五章 八章】
学院に雇われて半年となる初老の用務係。役員の遣いでリラの研究室を訪れ、本部中央棟への呼び出しを告げた。生気に乏しい風貌からは想像できない、器用さと気配りの細やかさをもち合わせている。噂話が好きで人間観察を趣味とするため、リラに助言したり、そのうろたえる姿を見て楽しんだり。さらには、任務に向けた足掛かりをリラに与えることとなる。

〈ボナルティ〉【一章 三章 四章 八章】
いつもネイドルの背後に控えている丸眼鏡の小男。彼も同じく役員の地位にあるが、金切り声でわめき立てる姿は、まるで口うるさい官吏だ。リラが、単なる腰巾着だろう、と見て油断したのも無理はない。彼の言い分はこうだ。ただ飯を食わしてやっているのだから恩を返せ。さらに返済金の免除と帰郷の許しという甘美な言葉で、リラの反抗心を完全にくじいた。

〈マレッタ・トウヤ〉【六章】
カンタベル学院に勤めて二十余年、学生食堂の厨房を仕切る調理人である。口達者で腕っ節が強く、たとえ貴族の子弟であろうが容赦せずに叱りつけるため、学生たちに恐れられていた。容姿についての表記は少ないが、大勢からの求婚を受けたことがあり、力強い人間性とも相まって魅力的な人物のようだ。我が子と同年代のリラとは、固い友情で結ばれている。

〈リラ〉【序章~】    
カンタベル学院で歴史研究に従事する魔術師。険しい山に囲まれたクルルの里で生まれ育つが、放浪の老魔術師に才能を見出されたことから山を下り、同学院において魔術を学んだ。故郷の山道で鍛えられた俊敏性と、丈夫な体をもつ。本人は慎重派だと主張するが、根っからの研究者体質で、とかく興味が先走るため、周囲の見解が必ずしも一致するとは限らない。

〈ロウマン〉【序章 二章 五章】
放浪の果て、クルルの里にやってきた老魔術師。山での厳しい暮らしを送る人々の支えとなるべく里の外れに住み着いた。そこで出会った少女の才能を見出し、弟子に迎える。医術にも長けているが、魔術しかり「世の中には万能なものなど存在しない」と弟子を諭す。また、学院で魔術師範を務めるアトワーズとは、過去のいくさにおいて生死を共にした仲だった。

〈ロスロー〉【四章】

立派な体格をした、学院でも屈指の実力をもつ魔術師。攻撃魔術の達人であり、学院内外で立てた功績によって称号を授与されている。貴族の出身であることを誇示しないなど、自らには徹底した実力主義を課すいっぽう、伝統や格式を重んじる傾向は強い。最近、酒館で朝まで飲む姿が目撃されている。ふだん堅物なだけあって、酒が入ると面倒な人物に違いない。

その他の登場人物 ※五十音順


〈ヴィルジット〉【二章 三章】

重役員のネイドルによって、リラに与えられた偽名。冒険者協会の証書には剣士とある。

 

〈カドマク・ニルセン〉【五章】

ウトロの山奥で金脈を発見した探検家。四度目の探索では、部隊もろとも消息を絶った。

 

〈セノルカ・バリン〉〈ベイケット・クラン〉〈オハラス〉【八章】

二十年ほど前の除名者記録では「学院条例の著しい違反のために処分となった」とある。

 

〈ゼラコイ〉【二章 八章】

閲覧室に猫を放ったり、戦場魔術の廃止を訴えたりした魔術師。消えた賢者として有名。

 

〈チャドリ〉【六章】

学舎の厨房において食材庫の管理を任されている。ものぐさだが、料理長の信頼は厚い。

 

〈テルゼン〉【八章】

トツカヌと話していた若い魔術師。紫紺色の長衣を着ており、身分が高い人物のようだ。

 

〈トツカヌ〉【八章】

立派な体格をした老人。テルゼンには不満げな態度を見せる。酒を飲まないと眠れない。

 

〈ナージャ〉【七章】

アトワーズの教え子。六年前に卒業していることから、リラよりすこし上級生のようだ。

 

〈ブルニ〉【八章 十章】

いくさでの悲惨な経験がもとで人間不信に陥った守衛の老人。リラにはすこし心を開く。

 

〈ベルカ〉【五章】

アマダと共に、歴史研究に従事している学者。思慮の欠ける室長に詰め寄ることがある。

 

〈ポロイ〉【二章 五章 八章】

二千年前の災厄にて大船団を率い、滅亡寸前まで追い込まれた人類を新大陸へと導いた。


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