第九章 月夜の廃墟にて人の縁に感謝する(5)
文字数 3,025文字
リラが、やり過ごそうと杖を下ろしたところ、それは無造作に腕を振り上げた。
「え?」
反射的に飛び退いたあとの空間を土人形の腕が切り裂き、風圧が頬を撫でていく。リラは背後のウルイと衝突してよろめいた。土人形の手に握られていたのは
「気をつけろリラ君! 何か様子がおかしい」
あやうく死ぬところだったのだから、おかしい、では済まない。肝を冷やす間もなく棍棒が左から襲いかかる。リラは両手に構えた杖で攻撃を受け止めつつ、体を右へ走らせようとしたが、思いもよらぬ力に壁際まではじかれて、木棚に背中を打ちつけた。手を離れた杖が、光の粒子をまき散らしてころがる。
素手となったところへ狂気を帯びた土人形が迫り、棍棒を、木棚めがけてすくい上げるようになぎ払った。
身を低くして致死性の一撃から逃れたリラは、木箱や瓶の破片が飛び散る中、相手の背後に見える床めがけて体を投げ出した。受け身と同時に跳ね起きたところ、立てかけられていた棒きれが散らばり、けたたましい音を響かせた。
激しい動きにもかかわらず、山の斜面を駆け回り身についた
「リラ君、早く……早くこっちへ!」
外に出てしまえば追ってこないと踏んでいるのだろうが、立ちはだかる相手は
異様な光景だった。土人形が体の向きを変えることなく、呪文が刻まれた背面を見せたまま距離を詰めてきたのだ。先ほどまでの右腕が、いまや左の機能を果たし、いびつな角度で棍棒を振り上げる。
逃げながらも、リラは可能性をさぐりつづけていた。おそらく敵は、部屋に踏み込んだ者だけに反応している。とてつもない腕力だが、人間ほどの細かな動きや複雑な判断は不可能で、
その事実が彼女の心に余裕を生んだ。好奇心が恐怖を頭の片隅へ追いやると、足元の棒きれを拾い上げて両手で構え、正面切って対峙した。
「ウルイさん、援護して――」
土人形の肩越しに、ウルイが
「――大丈夫よ、無理じゃない!」
叫ぶと同時に、相手の手首めがけて打ちつける。武器を叩き落す狙いは、手に強烈な
土人形には回避行動も何もあったものではなく、侵入者に接近しての攻撃を機械的に繰り返すのみだった。リラはあとずさり、頭上からの打ち下ろしをやり過ごしたものの、直後に突き上げられた一撃が、横方向に身を
土人形の動作が鈍ったのはその時だ。破れかぶれで室内に踏み込んできたウルイが呪文を唱えている。
その隙に、リラはそそくさと壁際まで下がってしまう。狙いすました顔だった。動きだした相手まで四歩もないが、これだけ間合いができれば上々だ。構えた棒きれは手に
リラは大きく息を吸い込んだ。室内での強力な魔術は危険なことに加え、時間をさいてもいられない。
土人形は
ふたりはつぎの呪文を唱えにかかるが、ふたたび動き始めた土人形は、寝ぼけた様子で立ち上がると、何事もなかった顔で扉口から出ていった。
物置き部屋は静けさに包まれ、魔術師たちの息遣いだけが聞こえた。鼻を赤くしたウルイが、おたおたと話しだす。
「わたしが部屋に入らなかったのは……あの人形が侵入者のみに反応するものだと見抜いたからで、君が反撃するための隙を作ろうと……うわっ」
駆け寄ったリラが両肩を目一杯に揺さぶった。
「怪我はない!? 鼻は大丈夫? ついカッとなってしまって……危ない目に合わせてごめんなさい」
日頃から冷静に振る舞っているつもりなのに、
それはそうと、今朝から謝り通しのリラだった。
「君こそ無事でよかった! あんなのに立ち向かっていくなんて、ひやひやしたよ。でも勇ましいねえ、まるで剣士じゃないか」
「ある人を
控えめに見積もっても命が危うかったというのに、すかさず無事を喜び合う余裕が、いまのリラにはあった。
ウルイは興奮冷めやらぬ様子で多弁になる。
「それにしても、あの間合いで詠唱してしまうとは、たまげた集中力だ。わたしの魔術にしても、まさか戦いで役に立つなんて……、この手は君が戻ってからの探索でも、きっと使えるぞ!」
しかし、余計なことまで口にしたと気がついたのか、ふたつ大げさに咳をする。
「そういえばわたし、ウルイさんが戦うところを初めて見たわ」
「そりゃあ、いつもは怖く――いや、きみの邪魔をしてはいけないと思っているのさ。ああ、お願いだからそんな目で見ないでおくれ……」
リラはじっとりした目を向けて、なぜ亡き恩師の面影をこの同僚に重ねようとしたのだろう……と自問を繰り返していた。
ウルイはたまらずに仕切り直す。
「それはそうと、奇妙な土人形だったねえ。見たところ魔法構文には改編された跡があったけど、判断能力が与えられているなんて、たいしたもんだよ」
舌を巻くと室内を眺めまわした。
先ほど砕け散った木箱は空洞で、物品は処分されたのか、棚には空きが目立つ。昼間にエルトランの居室で見当たらなかった、魔術に関する書物があるのでは、というリラの期待は外れたようだ。せめて、誰が何を目的としてこの部屋に訪れていたのかを突き止めたい。
「あの土人形が部屋の番人なのか、研究のための試作なのかわからない……。今はもぬけの殻だけれど、こんなに怪しいのだから、きっと見られては困る何かがあったのよ」
言いつつリラは、床にころがったままになっているヤマカニワの杖を拾い上げた。杖にかけられた灯りの魔術が、はじかれた衝撃で飛び散っていたので、ふたたび呪文を施した。
土人形と戦うため、とっさにつかんだ棒きれは、古い魔術の杖だった。駆け出しの学生が手にする訓練用で、特別なものとはいえないが、中ほどに
「ベイケット……クラン……閲覧室の記録にあった名前だ!」