第七章 荒れ地の老人と天幕の記憶(4)

文字数 1,836文字

 アトワーズは、楽しげな表情で天井を見つめる教え子に言った。
「そうそう、ロウマンもいい年だ。落ち着いたら、いちど会いに行ってやらんといかんな、リラ」

 ロウマンは里を出立(しゅったつ)する十三歳の弟子に、古くからの知人アトワーズに()てた手紙を持たせた。旅に付き添うと言う師匠の申し出を、リラが「長い旅なので先生の腰が折れてしまいます。キャンタベリーへは、わたしひとりで大丈夫です」と、かたくなに譲らなかったからだ。
 山岳地帯を抜けて都を経由し、キャンタベリーへと及ぶ、二十日間もの行程の半ばを同行者と共に、あとの十日をひとりで旅して町の門をくぐったリラは、迷路のような町中をさまよって、ほうほうの体でアトワーズのもとにたどり着くことができたのだ。

「ロウマン先生は、確かに腰を悪くしていらしたけれど、『わしは小さな頃、病弱だったが、ほれ、見ての通りこの年までぴんぴんしておる』って、いつもおっしゃっていましたわ」
「弟子の手前、見え透いた強がりを言っとるだけだ。いくら賢者ともてはやされたところで、しょせんはただの老いぼれなのだからな」
 賢者としてのロウマンは別の名で知られるが、ふたりにとってはそれ以上の存在だ。天幕(てんまく)の中で、名を捨てたわけや賢者などといった仰々(ぎょうぎょう)しい呼称について話されることはなかった。
 そのロウマンから贈られた杖を、リラはいまだ大切に使いつづけている。

「いちど言おうと思っとったのだが、ずいぶんと小さくなったものだな。大切なのはわかるが、いまの身長に合った杖を使ってはどうだ? 術の精度にも影響するだろう。おまえになら……わしのをやってもいい」
 隅に立てかけられている、琥珀色(こはくいろ)の、ヤマカニワの古木で作られたリラの杖を見てアトワーズが言う。里で修行を始めた頃、リラの背丈に合わせて作られたものだった。石突(いしづ)きは傷みを防ぐため補強されており、旅に向けては背負うための革紐(かわひも)が取りつけられている。

 魔術師にとって杖は、道具以上の意味を持つものだ。弟子となるものや、一人前と認めたものに師匠が与えたり、跡を継ぐ者が受け継いだりするもので、名士アトワーズが口にした言葉の意味は重い。
「そんな、もったいない……。でもありがとうございます。ですが、きっとわたしには必要ありません。強力な呪文だってそうです。また誰かを傷つけてしまわないか、正直に言うと、とても怖いのです」
「しかしな、いつか強い力を必要とする日が、避けられぬ戦いが、かならず来る。おまえが思っとる以上に魔術やこの世界は不安定なのだから」

 翌日、リラはチャタンに向けて出発するが、数日の実習を終えて学院に戻った時、恩を返す機会が永遠に失われてしまったことを知る。
 思い返すと、アトワーズが沈香(じんこう)()きしめていたのは、鼻の()く教え子に自らの死期(しき)(さと)らせないためだったのだ。リラはいまでも強く()いている。
 五年以上も前の自分は若すぎて、そんなことにも気づかずにいたのだから。


「また、あいさつに来ました。わたし、明日からウトロへ行くことになったのですが、あの日に先生がおっしゃった通りの、避けられない戦いになるかもしれません。でも、先生がこの場にいらしても、たぶん、マレッタと同じ課題をお与えになるのでしょうね……」
 リラはマレッタと別れたあと、学舎の外れにある空き地に足を運んだ。そこには簡素な石が置かれるだけで、ほかには何もない。くしゃくしゃの黒髪を揺らす初夏の風が、鳥のさえずりとともに、天幕のうちに響いたふたりの声を運んでくるようだった。

「それからひとつ、よいお知らせがあるのです。もしかすると近いうちにロウマン先生と会えるかもしれません。その時は、アトワーズ先生もいっしょですよ」
 荒れ地を渡り歩く漂泊(ひょうはく)の民は墓を持たない。アトワーズも生前より親しい者に、自身亡きあと、体は郊外にでも遺棄(いき)するよう言い残していた。とはいえ、都市においてはそうもいかず、天幕が張られていた場所に簡易な墓石が置かれた。
 遠く離れた故郷を思いながら帰ることかなわず。その郷愁(きょうしゅう)がリラには痛いほどわかるのだった。

 リラは墓標(ぼひょう)を背にすると、瑠璃(るり)の大屋根の周囲に、いくつもの尖塔(せんとう)を備えた建造物へと歩き始めた。
 夢か現実か、いつの頃なのか定かでないが、記憶の片隅には、アトワーズに何度も頭を()でられた、おぼろげな情景がある。もう、そんな小さな歳でもないのになぜだったのだろう。
 いくら思いだそうとしても、脳裏には優しい霧が深く立ち込めるばかりだった。


第八章につづく
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登場人物紹介

おもな登場人物 ※五十音順


〈アトワーズ〉【四章 七章 九章】

学院の魔術師範を務めていた老人。出身とする漂泊の民トルシャンが、盗掘師たちの遠縁であることや、敷地の片隅に天幕を張って暮らしていたこと、毎度のようにリラをかばっていたことから、役員たちに「荒れ地生まれの変わり者」と煙たがられている。リラの師であるロウマンとは、過去の大いくさを生き抜いた戦友。リラに、亡くした娘の面影を見ていた。


〈アマダ〉【二章 五章】
リラが所属する〈第三・古代史研究室〉のすこし太った室長。「うだつの上がらない、あばら家の亭主」と揶揄されている。気さくで人懐っこそうな顔をしているが、がさつで繊細さなど持ち合わせてはいない。彼の衝動的な行動で研究員たちは振り回され、たびたび危険な目にあわされている。生まれは港町の裕福な商家だが、わけあって学者になる道を選んだ。


〈ウルイ〉【五章 九章】

〈第三・古代史研究室〉では最古参となる年配の魔術師で、独学による魔術は、なぜか探索に向いたものばかり。のんびりとした人柄だが、自由気ままな室長を諭すこともある。リラに対しては、とくに優しく接するようだ。アマダのせいで危機に瀕することの多い研究室の面々だが、彼のような、おっとりした者がどうやってくぐり抜けてきたのかは不明である。


〈エルトラン〉【一章~】

学院の書庫に侵入して重要な書物を盗み出した男。高位魔術研究室に所属する優秀な魔術師であるが、異端魔術の研究に手を染めていたという噂が絶えない。吹雪の中での追撃を振り切ったあとは行方をくらませているが、東の森林地帯に潜伏し、ウトロの事件に関わっているのではないか、と目されている。出自についても諸説あり、得体の知れない人物である。


〈ジュナン〉【二章 三章】
冒険者の一団に属する駆け出しの剣士。魔物退治のあと、しばらくリラと行動を共にする。一人前だと認められたいがために護衛の役目を不服がったり、戦いを前に緊張した表情を見せたりするなど、初々しさの抜けない彼女だが、どこで身につけたのか、洗練された剣の腕をもつ。また、ドラゴンに襲われて生き延びたのだから、強運の持ち主というほかない。

〈ネイドル〉【一章 三章 四章】
カンタベルの運営に関わっている重役員だが、魔術や学問への造詣は深くない。リラを呼びつけて威圧的な態度で書物奪還を指示した。腹いせのために〈成金趣味、もしくはむっつり顔〉と名付けられていることを本人は知る由もない。貴族会という目の上のこぶとエルトランの事件に悩まされているが、彼の関心はもっぱら、美術品の収集や美食に向けられている。

〈フルミド〉【三章 五章 八章】
学院に雇われて半年となる初老の用務係。役員の遣いでリラの研究室を訪れ、本部中央棟への呼び出しを告げた。生気に乏しい風貌からは想像できない、器用さと気配りの細やかさをもち合わせている。噂話が好きで人間観察を趣味とするため、リラに助言したり、そのうろたえる姿を見て楽しんだり。さらには、任務に向けた足掛かりをリラに与えることとなる。

〈ボナルティ〉【一章 三章 四章 八章】
いつもネイドルの背後に控えている丸眼鏡の小男。彼も同じく役員の地位にあるが、金切り声でわめき立てる姿は、まるで口うるさい官吏だ。リラが、単なる腰巾着だろう、と見て油断したのも無理はない。彼の言い分はこうだ。ただ飯を食わしてやっているのだから恩を返せ。さらに返済金の免除と帰郷の許しという甘美な言葉で、リラの反抗心を完全にくじいた。

〈マレッタ・トウヤ〉【六章】
カンタベル学院に勤めて二十余年、学生食堂の厨房を仕切る調理人である。口達者で腕っ節が強く、たとえ貴族の子弟であろうが容赦せずに叱りつけるため、学生たちに恐れられていた。容姿についての表記は少ないが、大勢からの求婚を受けたことがあり、力強い人間性とも相まって魅力的な人物のようだ。我が子と同年代のリラとは、固い友情で結ばれている。

〈リラ〉【序章~】    
カンタベル学院で歴史研究に従事する魔術師。険しい山に囲まれたクルルの里で生まれ育つが、放浪の老魔術師に才能を見出されたことから山を下り、同学院において魔術を学んだ。故郷の山道で鍛えられた俊敏性と、丈夫な体をもつ。本人は慎重派だと主張するが、根っからの研究者体質で、とかく興味が先走るため、周囲の見解が必ずしも一致するとは限らない。

〈ロウマン〉【序章 二章 五章】
放浪の果て、クルルの里にやってきた老魔術師。山での厳しい暮らしを送る人々の支えとなるべく里の外れに住み着いた。そこで出会った少女の才能を見出し、弟子に迎える。医術にも長けているが、魔術しかり「世の中には万能なものなど存在しない」と弟子を諭す。また、学院で魔術師範を務めるアトワーズとは、過去のいくさにおいて生死を共にした仲だった。

〈ロスロー〉【四章】

立派な体格をした、学院でも屈指の実力をもつ魔術師。攻撃魔術の達人であり、学院内外で立てた功績によって称号を授与されている。貴族の出身であることを誇示しないなど、自らには徹底した実力主義を課すいっぽう、伝統や格式を重んじる傾向は強い。最近、酒館で朝まで飲む姿が目撃されている。ふだん堅物なだけあって、酒が入ると面倒な人物に違いない。

その他の登場人物 ※五十音順


〈ヴィルジット〉【二章 三章】

重役員のネイドルによって、リラに与えられた偽名。冒険者協会の証書には剣士とある。

 

〈カドマク・ニルセン〉【五章】

ウトロの山奥で金脈を発見した探検家。四度目の探索では、部隊もろとも消息を絶った。

 

〈セノルカ・バリン〉〈ベイケット・クラン〉〈オハラス〉【八章】

二十年ほど前の除名者記録では「学院条例の著しい違反のために処分となった」とある。

 

〈ゼラコイ〉【二章 八章】

閲覧室に猫を放ったり、戦場魔術の廃止を訴えたりした魔術師。消えた賢者として有名。

 

〈チャドリ〉【六章】

学舎の厨房において食材庫の管理を任されている。ものぐさだが、料理長の信頼は厚い。

 

〈テルゼン〉【八章】

トツカヌと話していた若い魔術師。紫紺色の長衣を着ており、身分が高い人物のようだ。

 

〈トツカヌ〉【八章】

立派な体格をした老人。テルゼンには不満げな態度を見せる。酒を飲まないと眠れない。

 

〈ナージャ〉【七章】

アトワーズの教え子。六年前に卒業していることから、リラよりすこし上級生のようだ。

 

〈ブルニ〉【八章 十章】

いくさでの悲惨な経験がもとで人間不信に陥った守衛の老人。リラにはすこし心を開く。

 

〈ベルカ〉【五章】

アマダと共に、歴史研究に従事している学者。思慮の欠ける室長に詰め寄ることがある。

 

〈ポロイ〉【二章 五章 八章】

二千年前の災厄にて大船団を率い、滅亡寸前まで追い込まれた人類を新大陸へと導いた。


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