大文字さんを前にして ~西條看護主任~

文字数 2,131文字

安堂さんとの付き添い看護のあと数学の話を聞かせてくださいました。
素数の話、足し算と掛け算の話、三角形と円の話など、昔から数学はあんまり得意でも好きでもなかったんですが、とても面白くて仕事をわすれて聞き入ってしまいました。こんな先生がおったら、算数嫌いな子はおらんようになると思います。年下やのにお父さんのようでお兄さんのようで、でもかわいいとこもあって、なんやいろいろと、いままで会うたことのない魅力的で不思議な人です。
ステーションに戻って少しだけ事務仕事をして、六時からの主任会議まで一時間ほどの間が開いたので、紺色のカーディガン羽織って、あったかい缶コーヒーで手をあたためながら屋上に上がりました。いまはきれいに整備されて、患者さんがお散歩できる屋上庭園になってますが、目の前に広がる大文字さんと、人目から隠れるように二人で並んで座った機械室と受水槽との狭い段差は、あの頃の変わらんままです。
(12年いうたら、ちょうど干支一回りやなぁ)
(モスクワオリンピック、ボイコットして大騒ぎになったなぁ)
(教科書で米ソ冷戦やいうて習うたのに、ソ連崩壊してしもたなぁ)
ついこの間のことのように思う反面、遠い遠い昔話のようにも感じます。
この受水槽の見えへんとこに、うちと華ちゃんが一緒にボールペンで書いた相合傘があります。看護学生のときも新人のときも、嫌なことがあると、いっつもここに座って華ちゃんに愚痴を聞いてもらっていました。数年前に塗り替えられて見えんようになってしまいましたが、それでもここにくると華ちゃんがそばにおってくれる気がします。うちがなんやかんや言いながら看護婦続けてこられたんは、華ちゃんのおかげです。

女の人とそないな関係になったんは、華ちゃんだけです。でも、うちにはそういう気(ケ)があるんか、看護短大に入った時も研修の時も、病棟に入った時にも、それぞれ違う女性の先輩から、それとのうお誘いを受けたことがあります。みんな尊敬できる人で、ちょっとだけ心が動きましたがお断りをしました。その時はまだ、「華ちゃんとしかそういことはせえへんねん」って操を立ててたいうのが、正しいかもしれません。
男の人とは何人かとお付き合いしました。同年代の男子にはあんまり興味がのうて、どっちか言うたら、教授とか副院長とかの、二回り、三回りほど年の違うおじさんです。もうほとんどは鬼籍にはいられています。これもそう言う血なんか、鞭で叩いてくれとか、ナースストッキングであそこをぐりぐり踏んでくれとか、そんなんがお好きなお方ばっかりです。私らの結婚の仲人をしてくれはった脳外科の世界的権威である副院長は最後のお一人で、糖尿病でもうお遊びできませんが、今でもたまにご飯をご一緒したりします。
セックスにも興味がありますし自慰行為もします。男はんを喜ばせるようないろいろな手管も、それなりに上手いことできるんやと思います。でも、夫を含め他人さんとのセックスは、いつでもどっかで冷めてて夢中になられへんのです。
佐久間は深夜明けでいそいそと帰り、夫は大学の先輩に誘われて飲みに行くので、今日は帰ってこられへんかもしれん…とのこと。うちも今日は安堂さんにええことしてもうたし、そないこそこそせんでも、好きにしはったらええんですけどね。
今日は、ほんまにええ気持ちでした。あんな大きい元気なおチンチン、生まれてはじめてです。身体のなか奥まで入って柔らかいブラシでブラシゴシゴシ、ゴシゴシ洗うてもろてるようで、やっぱり若いいうのはええもんです。まんだその時のゴツゴツと固いもんで嬲られた感触いうのが残ってます。安堂さんとのことはセックスいうもんやありませんし、退院されたら終わりです。残念ですけど仕方ありません。このまま一生そうなんやろと思うと、ちょっと哀しい気もしますが、華ちゃんと一緒にうちも半分死んだようなもんなんで、仕方ありません。
夫とは始めから愛や恋やというもんやなく、母親や兄、親戚を含め周りから「早う、結婚せい」とやいやいの言われるのが嫌で、こっちにあれこれ干渉してこん人やったら誰でもよかったんです。はじめから子供なんて作る気もないし、浮気してるんを知っても「へぇ、そうなんや」という程度で、怒りどころか感情のゆらぎさえありません。うちの母親もそうやったんやろか。お話聞いてるふり、貞淑な妻のふり、仲良い夫婦のふり、セックスして感じてるふり、恥ずかしいふり、労りおうてるふり…。お父はんはお爺ちゃんの一番弟子の婿やって、女遊びがひどうなったんはお爺ちゃんが亡くなって重しが取れてからです。うちの両親は仲ええ時がちいとはあったんやろか。おかあはんもうちの前ではブチブチ言いながら、兄嫁とお互いに仲良しこよしの嫁姑のふりしてます。
うちだけやのうて、この世の中は〝ふり〟だけでできてるのかもしれん。人間は自分のことだけで、他人さんのことなんてどうでもええんかもしれん。そう思うたら、うちの夫のふりしてくれるあの人も、この面倒くさい世の中の被害者なんかもしれん。
「あぁ、しんど。あぁ、めんどくさ。あぁ、うっとうし」
大きな声でそう言うたら、口の中にコーヒーの甘ったるい苦みが広がりました。
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