看護婦の世界は大人の世界  ~佐久間看護婦~

文字数 2,622文字

「佐久間さん、なんか感じが柔らかこうなったね…」
「ちいちゃん、きれいになったね。彼氏でもできたんかな?」
男性からだけでなく、同期や先輩の看護婦からも、声をかけられることが多くなりました。合コンや飲み会のお誘いも増え、電話番号を聞かれたり、「お付き合いしてほしい」というラブレターもいただきます。
と言っても、主任に美容院を紹介していただいて髪型をショートに変えたり、そこで眉を整えてお化粧のコツをちょこっと教えていただいたり、眼鏡をやめてコンタクトにしたりといったくらいで、見た目がそう変わったわけではないのですが…。
ぼんやり自覚しているのは、気持ちというか、自分の心の持ちようの変化でしょうか。
これまでは、医師や先輩看護婦、患者や家族さんにどう思われているのか気になって仕方がありませんでした。「わたしなんて…」という劣等感を補うために、心の中で「あの先輩はあそこがダメ」とか、「あの患者さんは」と評価したり、格付けをしていたように思います。でも、その未熟なアンバランスを自覚すると同時に、自分に正直になって欲望のまま生きていくだけで、人生はこんなに明るく楽しいんだと気付いて、羽根が生えたように、自分自身がずいぶん軽くなったのです。
「あの痴呆症のおばあさん、佐久間さんの言うことだけはわかるみたいやね」
「わたし、佐久間先輩のような看護婦になりたいです」
みんなに好かれよう、後輩に尊敬されようと、気を張っていた時は、そんな風に言われたこと一度もなかったんですけどね…。

安堂さんが退院されてから、半年くらいたちますが、色々なことがありました。
ひとつは、西條先生のことです。
あの日、主任の言葉から西條先生とのことがバレていると確信しました。
でもそれ以上に、主任の豹変と欲望や快楽、常識や倫理に対する認識を根本的に破壊する一連の出来事の衝撃がすごすぎて、西條先生のことなんてどうでもよくなったのです。しばらくの間は電話がかかってきましたが、用事があると断ったり、留守電をプッチしたりで、そのうち連絡がなくなり自然消滅しました。
結果的にそれがよかったのです。西條先生は、奥手で真面目な人だと思っていたのに、私以外にも何人かの看護婦とお付き合いされていて、院内でその一人がもう一人の人をメスで切りつけるという刃傷騒ぎが起こりました。もしあのまま先生との関係を続けていれば、切りつけられていたのは私だったかもしれません。
手の甲を少し切ったくらいの傷だったこと、職員のロッカー室だったこと、病院がかん口令を敷いたこともあり、警察沙汰にも新聞沙汰にもなりませんでしたが、原因が西條先生の浮気だったことを含め、その話はあっという間に病院全体に広がりました。
切りつけた看護婦(外来の吉田さん)は懲戒解雇、もう一人の看護婦(がん病棟の久保田さん)と西條先生も逃げるようにお辞めになり、その歪つな尾ひれのついた噂の中心となったのは主任でした。
「鈴本に戻りました。引き続きよろしくお願いします」
自分でお話されたのは、朝の申し送りでのその一言だけです。

「白衣の天使」と言っても、一皮むけば、どろどろした色眼鏡の悪口と足を引っ張る妄想の噂話でできている女の世界です。人の恋愛、とくに離婚や不幸話が大好物な世界です。特に鈴本さんは若くして主任に抜擢され、副院長や教授からも覚えめでたい優秀な看護婦さんですから、これまでくすぶっていた同年代の以上の看護婦からの妬み、やっかみが一気に噴出した…と言ってよいかもしれません。
研修など他科の看護婦と一緒になると、「西條さん、いまは鈴本さんか、もう離婚しはったんやって? 早かったなぁ~、わたしやったら病院にいてられへんわ~」「看護婦としては優秀でも、奥さんとしてはもう一つなんかなぁ~」と嬉しそうに話しかけてくる人や、いつもは下手うって庇ってもらっているくせに、本人のいない休憩室で、あれやこれや、あることないこと話をしている先輩看護師を見ると、頭から火が出るほど腹が立ちました。
その時もそれ以降も、西條先生とお付き合いしていたことについて、主任から何かいわれたことはありません。もしかしたら、こうなることが分かっていて、別れるように示唆していただいたのかもしれません。でも、浮気の当事者だったわたしが「大丈夫ですか」とか「気にすることないですよ」とか声をかけることはできません。何とバカなことをしたんだろうと自己嫌悪を陥るばかりでした。
でも当のご本人は、まったくこれまで通り。誰にも(あんなことがあったわたしにも)分け隔てなく、穏やかで優しく飄々とした主任そのままでした。

わたしが一人で、いじいじ、イライラしていたのは一ヶ月くらいだったでしょうか。
主任がお休みの日、ちょっとした出来事がありました。
昼休みに休憩室に入ろうとすると、中から数人の下卑た笑い声が聞こえました。鈴本さんの二つくらい上なのに、まだ平の看護婦の人で、反鈴本派の筆頭の人です。瀬尾さんといいます。声はぼそぼそとしか聞こえませんが、雰囲気だけで何を話しているのか手に取るようにわかります。主任がショックを受けている風でもなく、何も言わないので調子に乗っているのです。怒っても仕方ないと思っても腹が立ち、何もできない自分が情けなく、ドアの前で立ちすくんでしまいました。
そのドアを開けたのは婦長でした。
「あんたら、ろくに仕事もできんくせに、いつまでも人の陰口かいな。何様やしらんけど、鈴本のことがそれだけ嫌なんやったら、明日からこの病棟に足を踏み入れんでよろしい。出入り禁止や。鈴本の十分の一も仕事できんくせに、性根の腐った三流看護婦がいつまでもここにおれると思いなや」
主任の影に隠れてちょっと頼りないように見えた婦長が、これだけどすの効いた強い口調で怒るなんてびっくりしました。パタンと強く締まったあとの休憩室は物音一つしませんでした。午後のナースステーションは、真っ青な顔が五人くらい、泣いてる子もいてお殺人犯のお通夜のようなすごい雰囲気でした。でも、その他の人はみんなその理由に納得しているようで、いつも以上に、粛々、淡々と仕事は進みました。
私はと言えば、溜飲が下がった、スカッとしたというよりも、自分も一緒に叱られたように胃が痛くなりました。でも、みんな口には出さないけど、この病院の看護婦は、ちゃんとした人の多い、大人の世界なんだなと少しうれしくなりました。

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