マドンナ先生 伊藤美奈 ~安堂洸太郎~

文字数 2,130文字

私が教師として働いた私立高校には、六人の数学教師がいました。
教科主任を含め50歳台の先生が二人(男性)、40代が二人(男性)、30代はゼロで、大卒二年目の私と26歳の女性教諭という構成でした。
当時は、理系進学クラスの数学は、ベテランの40代、50代教諭が担当し、私たち20代の教師は、文系進学クラスを担当していました。
四歳年上だった先輩女性教諭の名前は、伊藤美奈さんと言います。
小学五年生の時以来、大人になってから初めて女性として意識した人でした。
足の障害は、数度の手術で目立たなくなっていたものの、運動音痴であることは変わりません。160㎝の短躯で引っ込み思案、最大の誉め言葉が「物静か」「穏やか」「温和」。男性として魅力の欠片もないことは十分に自覚していました。子供の頃から感情を押し殺して生きてきたからか、祖先から引き継いだ忍びの血筋なのか、目立つことが嫌いで、友達も少なく、人との関わりも最低限のことしかしてきませんでした。24歳になっても、女性とお付き合いしたことも、キスをしたことも、もちろん性行為をしたこともありません。一応の性欲はありますが、そういうものだと諦めていました。
対して、美奈先生(伊藤先生はもう一人いたのでこう呼ばれていた)は、知的で清楚でありながら、気さくで明るく、黒髪とぱっちりした二重が印象的なキレイな人でした。生徒からは「ミーナ先生」とお姉さんのように慕われていました。授業中も教室から大きな笑い声が聞こえたり、文化祭で淡い水色の着物でお点前を披露したかと思えば、運動会では男子生徒の学生服を着て、ポニーテールに日の丸のハチマキを巻いて応援団長をかってでたりと、いつも注目を浴びる人でした。
当時はまだ女性の数学教師は珍しかったこともありますが、大規模な教育研修会でもメイン司会を任されるなど、校内のマドンナ教師というだけでなく、関西の高校教師の間でもアイドル的な存在でした。
これほど両極端な二人でも、同じ学内の同じ数学教師、20代独身で席も隣同士、テストや授業内容の情報交換も行うため、一緒にいる機会が多くなります。女性と二人でご飯を食べたり、お酒を飲んだりするのも初めての経験でした。恋愛感情を抱くほど身の程知らずではありませんが、懇親会などで他の男性教師が美奈先生にアプローチをしているのを見ると、どこか誇らしく感じたものです。

「安堂くんにしか、こんなこと話せへんわ」
「彼氏欲しいなぁ~、安堂先生は彼女さんとかいぃ~ひんの?」
「仏像巡りってええ趣味やなぁ、わたしも連れてってほしいなぁ~」
酔うと細い首がピンクに染まり、ツンと尖らせたく唇を寄せられたり、細身ながらも豊かな胸を腕に押し付けられたりしました。今から思えば、周りの生徒や教師がどのように見ているのか、私がどのような感情を抱いているのか、また、私のような冴えない男に優しくすることが、自分の評価にどのような影響、効果をもたらすのかまで計算している「あざといタイプ」ということになるのかもしれません。しかし、それまで女性とお付き合いした経験がまったくない私は、そんなことは思いもしませんでした。
当時、文系進学クラスは、各学年四クラスで、美奈先生と私が二クラスずつ担当していました。生徒からは、名前をもじって美奈先生が数学を受け持つクラスは「ミーナクラス」、私が授業をするクラスは、「安(アンラッキー)クラス」と言われていました。
私は、父とは違い「教え方が上手い先生」という称号はもっていませんし、欲しくもありません。ただ担当した翌年から、文系難関校への進学率だけが飛躍的にアップしました。学科ごとの偏差値からその原因は「数学の伸び」であることがわかり、校内の分析によって、私のクラスの生徒ばかりであることが明らかになったのです。

二年目になると、学内試験でも、美奈先生と私のクラスの差は更に広がりました。
先生の教え方が悪いわけでもありませんし、進学率が下がっているわけでもありません。美奈先生の授業は笑いに包まれ、こちらの生徒からは「アンティ」という不名誉なあだ名をつけられていましたから、「学力を上げてやりたい」「良い大学に入れてやりたい」という気持ちもありません。
なぜそんなことをしたのかと言えば、美奈先生に、能力の高い教師だと思われたかったからです。いまから思えば、精神憑依を使えば、美奈先生の頭の中を覗くことや、振り向かせることも容易にできたはずですが、当時は能力で人の気持ちをコントロールすることなど思いもしませんでした。
「安堂先生、すごいなぁ。どうしたら、生徒の数学の成績上げられるんか、レクシャーしてほしいわ」
少し酔った美奈先生に、唇を寄せられ、少し拗ねたように囁かれるとドキドキしました。スカートがずり上がったり胸元からちらりとブラジャーや谷間が見えたりもしました。私とは正反対のキラキラと輝いていた美奈先生に、認められたい、頼られたいという、自我に目覚めたばかりの子供の承認欲求のような気持ち、それだけだったのです。
しかし、子供の頃から感情を抑制してきた私は軽く考えていたのです。
人間には「裏表」があり、かつ「嫉妬」という重苦しい感情があることを。

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