『その手には乗らない』はずだった ~伊藤美奈~

文字数 2,199文字

赤江の家についたのは23時。東山の大きな屋敷が立ち並ぶ界隈を、あちらこちらとイライラ、うろうろした挙句、美術館のような豪壮な構えの門の前に横づけする。赤江の家は華道の宗家だと聞いている。赤江の祖父が創設者で、テレビにもよく出てくるから知っている。父親が家元を継ぐはずだったが、身体が弱くて十分に役割を果たせないので、赤江が次期家元に決まっているらしい。
平屋の離れと言っても玄関だけでも私のマンションよりも広い。こいつと二人きりになるのは危険だと思っていたから、玄関で話をして短時間で帰るつもりでいたのに、「どうぞ」とスリッパを出すと、すたすたと廊下を奥に入ってしまう。
部屋の中は眼鏡が曇るほどに温かい。広い部屋には、大きなダブルベッドと重役室のような大きな木の机と白い革のソファセット。なんで高校生の部屋にソファがあんのよ。
「先生、そとは寒かったでしょう」
湯気のたった飲み物を出してくるが、その手には乗らない。何がはいっているのかわからないものに、口をつけるほど馬鹿ではない。「この間みたいなことされると困るから」と、携帯用の文庫サイズのラジカセをテーブルの上に出して録音ボタンを押した。
「この間のことやけど、もちろん誰にも言うてないよね。私も警察にも訴えたりせんから、君たちも誰にもいわんといてほしいの。お互いのためになかったことにしましょ。君から青野と緑川にも約束させて。わかった?」
いつもと違う少し寂しげな表情。どういうこと? 気持ちがぐらつくがここで負けるわけにはいかない。
「もし、他の人にしゃべるなら、私にも考えがあるわ。あの写真も証拠に残してある」
「そうですか」
そう言うと、吹っ切れたようにいつものニコニコの表情になった。

「そない目ぇ剥いて、釘さされんでも、ぼくらも人に話したりしませんよ。ほんまに、あの日は、先生に感謝の気持ち伝えて、記念写真を撮るだけのつもりやったんです。でも先に先生が僕にキスをして、卒業祝いをしてあげるって、抱きついてきはったんやないですか。その写真もありますよ。今さら警察に言うとか、考えがあるとか脅かされても」
「そっ、そんな話がいまさら通用すると思ってるの」
「もちろん、先生がそないに怒ってはるいうことは、お互いに記憶違いとか、見解の相違はあるんやと思います。僕らも、先生があないなことされるやなんて思てもいいひんかったから、びっくりして興奮しすぎて、押し倒してしもたんはほんまです。先生は軽い冗談のつもりやったのに、それを勝手に本気にしたって言われると、そうかもしれません。でも、先生と体育倉庫で三対一でセックスしたんは事実なんで、このままでは僕らも先に進めません。当日何があったんか、親にも学校にもきちんと話をしようと思います。必要やったら弁護士と一緒に警察にも行きますよ」
「な、なに、勝手なこと言うてるのよ」
人にあんなことしておいてと、声が裏返るほど全身から怒りが沸きあがったけど、赤江の冷静でまっすぐな目を見ていると、私が間違っていたんじゃないか、記憶違いをしているんじゃないかという気さえしてくる。
「美奈先生がその気やなかったんなら、男である僕らの責任が大きいです。どんな処罰でも受けます。ほんまにごめんなさい」
「いや、私はそんなこと言うてんのとちがうの」
言い訳や逆切れなど、ストーリーを考えて想定問答もし、お風呂の中でも車の中でもぶつぶつと独り言を繰り返して、写真やテープ、襲われたときのブザーや目つぶしまで用意してきたのに、全くの想定外の藪の中に入り込んでしまっている。言葉を失うと同時に気持ちが弱くなっていくのがわかる。
「でも、美奈先生、なんであの時やのうて、卒業式が終わった今頃になって、急にそないなこと言いださはるんですか? 安堂先生の入院とか変なうわさと、なんや関係あるんですか?」
そう優しく聞かれて、「あの後、安堂に襲われそうになって」から、「突然のことで驚いて混乱していたので」と学校用の曖昧なストーリーを始めたが、こいつに通用するはずもない。私のクラスの数学の成績が伸び悩んで、系列女子高に転勤にさせられる寸前だったことも知っていた。
「混乱して、ぼーっとしてたら、普通いきなり殴りかからんでしょ」
「逆にそうやったら、入ってきたんが安堂先生やて気付かんはずないですよね」
「へぇ」「ほぉ」と「それで?」「なんで?」と優しい相槌で次々と嘘と論理矛盾が暴かれて、最後は安堂に責任を被せて学校を辞めさせるための策略だったと認めさせられた。
「先生、その話、カセットテープに残すと、後で大変ですよ」
最後に指摘そうされ犯罪の自白まで録音中だったことに気が付いて、慌てて中から黒いテープ部分を引き出してちぎってグチャグチャにした。
「まぁ、こっちも念のために録音してたんですけどね」
そう言って立ち上がると、机の上にあった手のひらに収まるサイズのマイクロレコーダーのスイッチを切って、声を失った私の前で金庫を開けて、お札の束の上に置いた。
「赤江くん。脅したり、強要するつもりなんてないの。ただ黙っててほしいだけ」
「でも先生、こんな夜中に無理やり押しかけてきて、警察やなんや、訴えるやなんや、人にお願いするような態度やないですよね」
いつもと変わらない、おっとりした笑顔でそう言われたとき、レイプのときとは比較にならないほど、背中がぞわぞわ、ぞわっとした。
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