序一 精神憑依者の独白 

文字数 1,749文字

 ある事件によって高校教師を退職し、上京にある自宅の近くの食堂で小学生に勉強を教えはじめたのは26歳の時です。そこから数えると来年で四半世紀になります。
 特別な教育プログラムもネット授業も、ホームページさえない、授業料も始めたときからほとんど変わらない昔ながらの通塾型の学習塾です。対象は高校生のみ、科目は数学、科学、物理、英語、定員は各学年35名、入塾試験も成績の張り出しもクラス分けもありません。
それでも、一年生の入塾時には偏差値50前後の普通の府立高校の生徒が、医学部、理学部、法学部などの国立の難関大学にストレートで進学します。
その秘密は私の憑依能力にあります。
手元の国語辞典には、憑依とは「霊や魂、悪魔や神様、狐などが人間に乗り移ること」と書かれています。霊魂や悪魔が何を指すものかわかりませんが、私の場合、意識を意図的に他人に移すことができるという特殊能力です。宗教や流行りのスピチュアルとは無関係ですが、他に適当な言葉がないため、そう呼んでいます。
わたしの半生を振り返るにあたり、まずはこの特殊能力についてお話ししたいと思います。

【単純憑依】
被憑依者の体に憑依し、言動や一部思考を体感・観察・把握できる。ただし、その思考や行動に影響を及ぼすことはできず、被憑依者も、憑依されていることに気付かない。
【精神憑依】
単純憑依に加え、被憑依者(憑依されている者)の思考・記憶に一定の影響を及ぼすことができる。ただし被憑依者は、自己の思考(自我)がコントロールされていることには気付かず、みずからの考えに基づき行動していると認識している。
【完全憑依】
被憑依者の言動・記憶・思考を完全に乗っ取ることができる。被憑依者は、本来の自我・意識を失うため、憑依されている間の思考・言動は記憶されない。

憑依能力、およびその能力者は大きく三つに分かれます。
単純憑依は「言動のみ・思考まで把握」「個別憑依・集団憑依」などその能力には強弱があり、精神憑依も「不満を抱いている武将への裏切り」から「忠誠を誓っている武将への裏切り」まで、コントロールできる思考の範囲は能力の強度によって変化します。
その仕組みは、いまもよくわかりませんが、本来それぞれの脳内だけで機能するシナプスが突然変異し、対象とする他人の神経系統に影響を及ぼすようになったものではないかと考えています。単純憑依、精神憑依、完全憑依の順に高い能力が必要であり、精神憑依者は高いレベルの単純憑依も容易にできます。経験や修行によって能力を一定上げることは可能ですが、単純憑依と精神憑依の間には超えられない壁があると言います。

唯一わかっていることは、これは遺伝的な能力だということ。
一族の中で憑依能力を持つ人が生まれる確率は三割程度。父を含め、そのほとんどの人は単純憑依者であり、精神憑依を持つ人は憑依能力者の中の、更に10人に一人程度しか生まれません。その家に3人兄弟がいれば一人は単純憑依者、村に子供が30人いれば、その中に一人精神憑依者がいるという計算です。この憑依者の能力が現れるのは男性だけです。そう考えるとY染色体の遺伝だということです。室町末期(応仁の乱の頃)に完全憑依能力を持つ女性がいたそうですが、精神が崩壊し、早くに亡くなったそうです。
私たちは、一人の人間の不可解な行動が、日本の歴史の転換点になったという事例を数多く知っています。その全てに関与していたか否かは不明ですが、祖先たちはその能力が故に、社会から恐れられ、忌み嫌われ、凄惨な歴史の暗闇の中に生きていたであろうことが容易に想像できます。また、能力者の出現と歴史の混乱には相関があり、平安末期、室町末期、戦国時代といった混乱の時代には多くの憑依者が生まれ、武家社会に完全に政権が移った江戸時代以降は、出現率は大幅に減少したそうです。
「この能力も、そろそろお役御免だ。私も、さや子さん(父は、私が13歳の時に亡くなった母をこう呼ぶ)の好みを知るためにこっそり使ったくらいで、この平和の時代には無用なものだ。もしお前に能力があらわれたとしても深く考えるな」
父は、鼻に栄養の管を入れたまま、念のためにと先祖から伝えられている憑依に関する一通りの説明をした数日後、この世を去りました。
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