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文字数 2,919文字

 荷物を全て運び出した1DKの部屋は、掃除をしたはずなのに埃っぽい。カーテンのなくなった窓は、空や街の姿を映している。それはレースカーテン越しに見る時よりもずっと作り物のようで、時折聞こえてくる雑音すら遠く感じた。
 午前十時。引越し業者が荷物を運び出した時間は一時間と少し、荷造りが間に合った事に透也は安堵していた。昨夜は営業部で開かれた送別会で盛り上がってしまったのだ。
 全員が敵に見えていたはずの同僚は、透也の異動を寂しがってくれ、それを示すように透也に酒を勧め続けた。意外な惜しまれ方に、最後のあいさつでは声を詰まらせてしまったほどだ。
 二次会から帰宅した午前一時、室内の静寂さを気にする暇もなくシャワーを浴び、最後の荷造りに取り掛かって仮眠をとっているうちに引っ越し業者がやって来たのが午前九時前だ。
 営業部の同期からは「結婚式の招待状を送るよ」と言われた。以前ほど億劫には思わなかった。今ならきっと、心から祝える。
 マンションの管理会社の者がチャイムを鳴らし、立ち合いを終え、鍵を返した透也はキャリーケースを引いてマンションの外に出た。寝不足のまま一仕事を終えたせいか、日常が稼働している外の景色に目がくらみそうになる。立ち止まったまま、築十年のマンションを見上げる。駅近かつ会社までのアクセスのよい部屋は、とても気に入っていた。カーテンの外された自分の部屋だった窓を見つめ、ひと呼吸をしてからようやく駅に向かった。
 キャリーケースの音を鳴らしながら歩く透也を、自転車に乗った主婦が追い越していく。十二月最後の日曜日の朝の風景、コートの隙間から冷たい風が入り込んでくる。
 スマートフォンには玲からメッセージが届いていた。お気を付けての六文字と、一匹の子猫の写真。そういえば先日のメールで、妻となった彼女と相談をして保護猫を引き取ったのだと話していた。
 可愛らしい子猫の写真を瞼に焼き付けて駅まで歩いていくと、改札前には見慣れた姿があり、透也は目を疑った。
「優菜ちゃん……?」
 そこではダウンコートを羽織った優菜が立ち、透也を見つけるなり、ほっとした表情を浮かべた。
「透也君、急にごめんね。出会えなかったら連絡しようと思っていたんだけど……」
 引越しの日がいつかと聞いてきたのは有紗だった。予想通り、「有紗さんに今日が引越しって聞いたから」と優菜は控えめに笑う。
 きちんと彼女に会えるのは洋風レストランで過ごした夜が最後だと思っていた。想像もしなかった出来事に戸惑う透也に、優菜は「荷物持つよ」と透也のキャリーケースを引き取った。そのまま一緒に改札を通る。どうやら新幹線の駅まで付き合ってくれるらしい。
「どうして、今日は来てくれたんだ?」
 ようやくそれを訊けたのは、電車に乗ってからだった。年末だからか、車内には透也と同じようにキャリーケースを持った乗客や家族連れが多く、通勤時とはずいぶんと光景が異なる。
 吊革に捕まっている優菜は「どうしてかな」と視線を落とした。白い頬に長い睫毛が浮かび上がる。
「なんだか、会わないといけない気がしたんだよ」
「俺の事、なんだかんだと心配してくれていたもんな」
 優菜からひとつ分空けた吊革に手首をひっかけて透也が言うと、「違うよ」と優菜は透也を見上げた。
「来たのは、私の為だよ」
 スニーカーを履いた足元から、電車の振動が伝わってくる。電車が進めば進むほど、車内の酸素が薄くなっていくようだ。
 透也は窓の外を眺める。青い空は街を映し、いくつものビルが次々と流れていく。人々の暮らす気配。結婚をしていない自分でも、家族と距離を置いている自分でも、仕事というツールで社会に関わっていけるだろうか。
 やがて電車が駅に着き、透也は優菜と並んで下車した。キャリーケースをどちらが持つかで軽く揉め、腕力を理由に透也は優菜から荷物を引き取った。
 新幹線への乗換口では、多くのアナウンスが鳴り響き、コートを着た人々が行き交っている。
「透也君」
 すでに購入していた新幹線の切符を財布から取り出していると、優菜が隣で言った。
「この前のレンストランで、味方でいてくれるって言ってくれて嬉しかった。ありがとう」
 優菜の言葉を受けて、ああそうか、と透也は思う。温かい家庭で育った彼女は、ありがとうもごめんなさいも惜しまない人だった。そこには不純なものなどひとつもない。三年前、透也が優菜を選んだ理由。優菜の傍にいたかった理由。
 大切にしたかった。いくつもの感情が喉の奥からこみ上げてくる。
「優菜ちゃん」
 胸の奥が息を吹き返したようにじわりと熱を持つ。これまで欠けていたピースが少しずつ嵌っていく感覚は、神経が研ぎ澄まされたように様々なものがクリアになり、その不安定さが心地よい。
 透也は優菜に一歩近づき、肩元まで流れる髪に触れた。いつかにはできなかった事。優菜はただじっと透也を見上げたままだ。
「抱きしめてもいい?」
 改札の向こうでは、到着する新幹線のアナウンスが流れ続けている。自分がこの土地を離れる事を、駅の匂いによって実感させられた。透也が訊ねると、優菜ははにかむように笑って、透也に抱きついた。
「友情のハグだよ」
 二人分の厚いコート越しで、互いの体温すら感じられない。鼻先に触れた優菜の髪は思いのほか冷たく、それでもいいんだと知る。無理して温め合う必要はない。それが優菜の、透也の決めた道だ。
 腕の中で、優菜が小さく笑う。
「私達、まるで恋人みたいだ」
 優菜の声は震えていた。彼女が何よりも切望していたもの。
 電話で有紗が言っていたように、自分の行動が他人に作用するのだとしたら、その力は優菜の為にあればいいと思った。
「馬鹿だな」
 指先で優菜の頬に触れ、額同士をくっつけて透也は言う。
「恋人なんかより、もっといい関係(もの)だよ」
 混雑した駅構内のざわめきが少しずつ近づいてくる。改札口近くで抱き合う男女に注目する通行人は誰もいない。
 この街には実家がある。何よりも優菜がいる。この先の約束を、優菜とであればどんな事があっても守りたいと思う。
「またね」
 そう言ったのはどちらだっただろうか。乗車予定時刻の十分前、透也は優菜と別れ、改札を抜けた。キャリーケースと一緒にエスカレーターに乗り、切符に記されている指定席のホームの位置まで歩く。
 混雑しているホーム内はまっすぐ歩く事もかなわない。まるで人生のようだ。ようやく列に並び、時間を確認していると、コートのポケットでスマホが鳴った。
 【お正月には帰って来るの? お父さんもお休みなので、三人で初詣にいきましょう】
 久しぶりの母親からのメッセージだった。また新年が明ける前にここに戻ってこなければならないらしい。透也は苦笑をこぼし、到着した新幹線に乗り込んだ。
 時速をあげた新幹線の窓際の席で、透也はスマホでニュースアプリを開いた。有名な俳優と女優の熱愛が発覚したという。相変わらずの世間の記事にひと通り目を通し、透也は顔を上げて窓の外を眺める。
 次々と映し出窓の景色、空の色はまだ変わらない。引越し準備と寝不足による疲労感が心地よく身体に染み渡り、透也はゆっくりと目を閉じた。
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