2-10

文字数 2,668文字

 いつの間にかあいりの口紅の香りが消えていた。ふっと唇を離すと、あいりはふわりと笑い、玲の頭に触れた。
「お風呂、一緒に入ろ」
 玲はつい先ほどの自分に沸き上がった衝動に驚いていた。もっと頭の中であれこれと組み立てないと実行できないと思っていた行為を、容易くしてしまった。何の情にも動かされないのは、あいりとは金銭の契約で結ばれている関係だからで、それがよかったのかもしれない。
 ベッドに座ったまま呆然としている玲をよそに、あいりは部屋の入口近くにあるユニットバスへと消えていった。湯船へと落ちる水音が、狭い室内に響いている。「玲くーん」と呼ばれ、玲が重たい腰をあげてのろのろと歩くと、あいりの目の前にある湯船の水面が綿菓子のようにふわふわと波打っていた。
「……泡ですね」
「泡風呂だよ。わたしのサービス」
 そう言って、あいりは迷いも見せずに着ているニットやスカートを脱いだ。淡いピンク色の女性特有の下着があらわになり、玲は思わず目を逸らした。
「玲君」
 玲の物怖じを予感していたかのように、あいりは優しく玲の手首を掴んだ。
「触っていいよ」
 そのまま玲の手があいりの胸元に誘導され、肌の柔らかさに玲は血管が沸騰しそうなほど心臓が熱くなるのを自覚した。これまで避けていた欲情を体感している事に後ろめたさを覚えながらも、心のどこかで安堵している。
 男が女の身体に触れるという、古代より当然として行われてきた生物的な行為。
 その後、玲はあいりに服と下着を脱がされ、二人で泡風呂に浸かりながら、あいりの手によって硬くなった欲を放散させられた。その後、白いバスタオルで互いの身体を拭き合い、先ほど二人で座っていた窓際のベッドに転がった。肌を重ねる感触に、玲は人の体温を知った。
 あいりの先導と共に柔らかな肌を辿り、太ももの奥にある濡れた感触によって女の身体の仕組みを指先に染み込ませていく。彼女の耳元に口付けながら抱き寄せると、吐息と一緒に漏れた声が小さく耳元で響いた。アダルトビデオで聞いたものよりも控えめで、ずっと煽情的だった。
 再び膨らんだ玲の熱を、あいりの手と口によって再び吐き出され、それからは時間になるまでシングルベッドに寝転がったまま、指を絡め合ったり、互いの冷えた背中に触れ合ったり、子供の頃から無縁だった無邪気さに包まれながら穏やかな時間を過ごした。
「玲君」
 シャワーを浴びる前よりも皺ができたシーツに片頬を預けながら、あいりが言う。
「わたしがさっき言った事は、ほんとうだよ」
「さっき……?」
「玲君が男前だって事。玲君は、これからきっといい恋ができるよ」
 気持ちよかったしね、と笑ったあいりは、玲の長めの前髪を梳くように触れ、無防備になった額にキスを落とした。
 あいりがベッドから立ち上がった事でベッドマットが軋みを立てた。ユニットバスから布ずれの音がかすかに響き、彼女が身支度をしている気配を察知する。
 玲はゆっくりと起き上がり、デスクに置いていたショルダーバッグから財布を取り出した。就職祝いで祖母から贈られたものを手に取った事で、ささやかな罪悪感が胸元を駆け巡った。
 やって来た時と同じニットとスカートを身につけたあいりは、玲から代金を受け取り、もう一度玲を抱きしめた。恋人というよりも、家族のような情愛に満ちたハグだった。
「ありがとね、玲君。優しくしてくれて嬉しかった」
 それはこちらのセリフだと思った。それすらも、上手く言葉にできない。
 玲から身体を離したあいりは、玲の両頬を包み込むように触れ、言葉を続ける。
「玲君は、人を愛して、人に愛される。わたしには分かるよ」
 春らしいトレンチコートを羽織ったあいりは、最後に軽いキスだけを残して、ドアの向こうへと消えていった。

 一泊で予約していたビジネスホテルを宿泊しないままチェックアウトをしたのは、午後九時だった。周囲には居酒屋が多いせいか、すでに酔っ払った数人組が酒の香りと共に玲とすれ違っていった。
 街中には様々な音が溢れている。信号機のメロディー、車のクラクション、人々の笑い声、電光広告塔の機械的な宣伝文句。
 玲は来た時と同じ在来線に乗り、自宅のマンションへと向かう。土曜日の夜の車内は、平日よりも浮き足立っているように見えた。やんちゃな男同士、おしゃれな女同士、そしてカップル。どこの世界でも同じだ。教室内とさほど変わらない光景。
 玲はドアの前に立ったまま、流れる景色を眺めていく。春の気配は濃くなり、川沿いでは花見の準備も行われているようだ。夜に出歩いても寒さで震える事はなくなった。季節は確実に移り変わっていく。
 ふと電車がトンネル内に入り、目の前の窓ガラスには自分の顔が映った。黒縁の眼鏡をかけた、野暮ったい前髪で顔を隠した冴えない男。見慣れた自分の姿はひどく疲れているようだ。
 電車が規則正しくリズムを鳴らす。ガタン、ゴトン、足元から伝わる振動が、自分の存在を明確にしていく。腹の底に沈殿していた劣等感が、電車のリズムに揺られ、波打っていく。
 帰宅すると、嗅ぎ慣れた匂いに包まれた。室内は出かけた時と同じ散らかり具合を残したまま、何も変わらない。午後十時半を示すアナログ時計の秒針も、窓の外で響いているエンジン音も、何ひとつ変わっていない。
 玲はジーンズのポケットに入れていたスマートフォンを開いた。傷つくだけだと分かっていながら、ユウナの情報を追ってしまう。
 更新されていたニュースを発見してしまい、玲はショルダーバッグを肩にかけたまま、カーペットの上で思わず正座をした。
 ユウナが熱愛報道を認めたという。
 【彼は私を大切にしてくれる、優しい人です】
 玲はスマホを投げ出すようにカーペットの上に置いた。ぼんやりと視線をあげれば、DVDの特典であったポスターのユウナと目が合う。リモコンをテレビに向け、録画番組表を表示させた。これは、玲の執着のかたちだ。
 玲は力なく笑い、リモコンで操作をする。この録画を消しますか、はい、いいえ。カーソルを「はい」に動かし、あと一息。自分の胸元に包丁を突きつけるような覚悟でリモコンを握る。
 押せなかった。録画を消す事をできなかった。リモコンを手元から滑らせ、玲は身体を折るようにしてカーペットに伏せた。鼻の奥がじくじくと痛み、沸き上がる感情が行き場所を失って渦巻いている。もう何日もスウィートマンバの曲を聴いていないのに、ユウナの歌声が耳から離れない。この執着は、玲の日々に必要なものだった。玲の救いだった。
 救いだったのだ。
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