2-9

文字数 2,427文字

 控えめにノック音が鳴り、玲はベッドから立ち上がった。馴染まないスリッパを履いた足でドアまで歩く。嗅ぎ慣れないカーペットの匂いを鼻腔に覚えさせながら、玲が回したノブを引っ張ると、そこには想像よりも小柄の女が立っていた。
「こんにちは」
 ネットの写真よりもあどけなく見えるのは身長のせいだろうか。しかし、しっかりと化粧を施した目元の皺は、彼女がそんなに若くない事を表しているようにも見えた。黒いボブヘアの毛先の隙間から、彼女の耳元が見えている。
 どうやって挨拶を返せばいいのか分からない。ドアを開けたまま突っ立っていると、女は玲を見上げて笑った。
「中に入っていいですか?」
「あっ、はい。あ、どうぞ!」
 ドアを大きく開き、彼女を室内へと促すと、女は慣れた足取りで中に入り、設置されているデスクの椅子に荷物を置いた。
「玲さん、ですよね?」
 彼女はトレンチコートを脱ぎながら、玲に微笑む。そのコートは以前に優菜が羽織っていたものとよく似ていて、玲は思わず凝視してしまった。「玲さん」と再び呼びかけられ、玲はカーペットの上に立ったまま、はっと顔をあげた。女はほっとしたように息を吐き、ローヒールのパンプスのまま玲の目の前に立った。
「改めまして、あいりです。よろしくお願いします」
 ネット上で見ていた名前を改めて発音される事で、可愛らしい響きに対してこれは彼女の本名ではないのだろうと推測する。いわゆる源氏名というものだ。
 三月最後の土曜日、午後七時。自宅のマンションから電車を一時間ほど乗り継いでやって来た隣県の県庁所在地。玲は、ビジネスホテルで彼女――あいりを待っていた。
「玲君って呼んでもいい?」
 想像よりもハスキーがかった声が、甘えるように玲に問う。首だけでうなずくとあいりは目一杯笑い、玲にベッドに座るように促した。
 コートを椅子の背に掛けたあいりは、会社で見かける女達よりもグラマラスな体型だった。胸やヒップが大きい分、薄手の白いニットに隠れている二の腕や短いスカートから伸びた太ももの肉付きがよく、しかし決して太っているという言葉ひとつでは片付けられない。スレンダーでもふくよかでも魅力を生み出す女の身体の不思議を、こんな時だというのに発見する。
「ていうか、玲君。今日は普段着なの? お仕事はお休み?」
「いえ、あの、……はい。休みです」
「そんな緊張しないでよー」
 玲の隣にあいりが腰かけたことにより、ベッドが小さく揺れ、玲はますます肩をこわばらせた。
「お仕事は何をしてるのー? って、聞いてもいいのかな」
「えっと、システム系……?」
「あっ、パソコン使うお仕事だ。すごいね!」
 いつかの透也との会話を反芻しながらようやく答える玲の言葉に対し、十倍にも百倍にも思えるリアクションで、あいりは表情をころころと変えた。
「じゃあさ、肩こりひどいんじゃない? 肩揉んであげるね」
 そう言ったあいりは、パンプスを脱いでベッドに上がり込み、玲の背後にまわった。彼女が動くたびにベッドが振動する。ふわりと漂った香りに煙草の匂いがかすかに滲んでいて、大人の香りだと思った。
 肉感的な体型とは真逆である華奢な手のひらが、玲の肩に触れていく。他人に触れられる事で疲労を自覚し、物足りない指圧に現状を思い知らされた。「玲君」と耳元であいりの声がかすれて響く。
「どのくらい溜まってるの?」
 肩や肩甲骨周辺の筋肉を揉んでいたあいりの指が、ふと玲の耳元に触れた。くすぐったさで身をよじると、あいりがベッドの上に手を付いて玲の顔を覗き込む。角度的にニットの襟元から豊満な胸元がよく見えてしまった。
「え……?」
 あいりの質問の意図をすぐに読み取れず、玲が訊き返すと、あいりは頬にかかっていた髪を耳にかけて微笑んだ。
「いつからエッチしてないのー?」
 あいりの手が、玲の眼鏡の縁に触れる。たちまち輪郭を失った景色で、あっと思った時には唇に化学物質を凝縮した香りを押し付けられた。あいりの付けている化粧品の香りだと気付くまで、少々の時間を要してしまった。
 あいりのダイレクトな物言いにおののいてしまったが、むしろ今はそれが正常なのだと玲は自分に言い聞かせる。
 いわゆるデリヘル嬢を予約したのは衝動だった。ユウナのスキャンダルに加え、優菜の同情じみた表情に打ちのめされ、気付けばスマートフォンで思わぬ単語を検索していた。
 立て続けに突き落とされた現状から抜け出したかったのだ。いつものルーチンに少しでもイレギュラーな声が入るだけで、玲の脳内はバグを起こしたように硬直し、周囲の空気に溶け込めなかった学生時代に引っ張られてしまう。経験値の浅さは自信のなさに繋がり、空っぽな自尊心だけを持って大人になってしまった。
 そんな自分を好きになれなかった。自分を好きになれない人間が、他人を好きになれるわけがないのに。
「……ないんです」
 あいりが枕元に玲の眼鏡を置いた音と共に、玲の小さな声が空調の効いた空間に浮かんだ。
「え?」
「経験、ないんです」
 羞恥心を押し隠しながら玲が恐る恐る目の前にあるあいりの顔を見たが、そこには何の感情も映し出されていなかった。「そっか」とまるで明日の天気を聞いた時のような軽さであいりは答え、玲に抱きついた。正面から襲いかかる柔らかさに、玲は再び言葉を失う。
 赤の他人に抱きつかれる事も、もちろん初めてだった。
「玲君、男前なのにね。縁がなかっただけだよ」
「そんなの、言われた事ないです」
「周りの見る目がないんだよー」
 営業トークであろうあいりの言葉は、懐疑心でいっぱいになっていた玲の耳にすっと入ってきた。それは、温かな腕に抱きしめられたせいかもしれない。
 騒がしい教室内で背中を丸める事しかできなかった自分が初めて肯定されたようで、目の奥がつんと痛み、玲はあいりの背中に触れた。自分の持つものとは何もかも違う心地にめまいを覚え、玲はあいりの頬に触れ、今度は自らキスを仕掛けた。
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