3-19

文字数 2,510文字

 馴染みのあるクリスマスソングが、オルゴールのメロディーに乗って流れている。幼い頃は、クリスマスというイベントの意味を上手く掴むことができなかった。イエスキリストの誕生祭だと教えてくれたのは、母親だった。
「引越し……?」
 オルゴールの音に紛れるように、優菜が訊き返した。
「転勤、とか……?」
「そう」
「そっか」
 うつむいた視線を彷徨わせながら、優菜は何かを考えているようだった。ノンアルコールカクテルの入ったグラスから、小さな炭酸の気泡が生まれては消えていく。
「透也君は、大丈夫なの?」
 再び顔をあげた優菜の表情には、先ほどのように結婚式に馳せた想いも、自分の生き方に寄せた諦観も見当たらない。
 大丈夫だよ、といつかの優菜の言葉を思い出す。そうだ、あれは三週間前に自分の部屋で聞いたものだった。曖昧な響きの、魔法の呪文。
「大丈夫」
 自分自身に言い聞かせるように、透也はゆっくりとうなずいた。
 そっか、と優菜は柔らかく笑い、グラスに口を付ける。
 唐突に、こうして無条件に彼女に会える事をできなくなるのだという実感を突きつけられた。少し思いあがっていたのかもしれない。恋愛感情がないとはいえ、優菜の中で自分の存在が大きくなっているのだと。
 本当は不安だらけだった事に気付く。新しい職場に新たな営業先、上手くやれる保証なんてない。
 この職業を選んだのも、転勤を受け入れているのも、透也による選択だった。会社は、結婚も出世も望まない透也にとっての、最後の砦だ。
 透也は自嘲を隠すように残っていたハンバーグを口に運んだ。優菜と過ごすのは最後なのかもしれないという予感とともに、コクのあるデミグラスソースが喉元に心地よく広がっていく。

 優菜を自宅まで送って帰宅した。まだ組み立てていない段ボールの束が立てかけられた玄関は狭く、身をよじりながらスニーカーを脱いでいると、コートのポケットに入れてあったスマートフォンが鳴った。
 【無事に結婚式を終えました。緊張しすぎて疲れました】
 珍しく玲からのメッセージだった。情緒のかけらもない文章を読み、寝室のクローゼットにコートを片付けながら透也は小さく笑った。ベッド横にある本棚はほとんど空っぽで、それだけで空気が冷え込むようだ。
 【俺は年末に引越しをするけれど、都合がつけば奥さんの目を盗んで飲みに行きましょう】
 メッセージアプリで送った文字が吹き出しと共に浮かび上がり、肝心な一言を忘れていたと透也はさらに文字をタップする。
 【この度はおめでとう】
 メッセージを送る電子音が、静かな部屋に響いた。よく耳を澄ませば、完璧な静寂などありえない。窓を開けてベランダに出ると、冷たい空気が頬を刺した。煙草に火をつけ、ベランダに寄り掛かる。耳を傾けると遠くから車のエンジン音が響き渡り、どこかの家からはピアノの練習音が鳴っている。人々の生活する音が、冷たい夜空を舞っている。
 暮らす場所が変わっても、この景色は変わらないだろう。どのような道を選んでも、きっとこの空虚からは逃れられない。透也は目一杯煙を吸い込み、それを吐き出した。
 どんなに夜が更け込んでも、朝はやって来る。再びスマホが鳴り、ありがとう、と玲からのメッセージが届いた。

 引継ぎ作業に奔走している日々は、心地よい疲労感に包まれている。
 クリスマスも終わってしまった十二月下旬の午後十時、帰宅途中にスマートフォンが鳴り、思わぬ相手に透也は生唾を飲み込んだ。
『もしもーし、今大丈夫だった?』
 スピーカーからは拍子抜けするような明るい声が響き、透也はしばらく会っていない洗練された女の姿を想像する。
「お久しぶりです、有紗さん」
『久しぶりー、元気ー?』
 少々間延びした話し方は昔と変わらない。有紗は透也の大学時代の先輩であり、優菜と出会った飲み会を取りまとめていた存在でもある。
「何か用ですか」
『何それ、冷たくない? ていうか、聞いたよ。森奥君、転勤するんだってね』
 その情報源について心当たりがあった。しかし、透也はあえてそれを訊ねた。
「誰に聞いたんですか」
『絹川さんに決まってるじゃん』
「なんだかんだ、仲良いっすよね」
 思わず笑うと、夜の空気に白い息が浮かんだ。今夜は特に冷え込んでいるのに、有紗の声のせいか、それとも周囲には疲労感を漂わせたサラリーマンが多く歩いているせいか、寒さを感じない。
『森奥君』
 忙しない年の瀬、有紗もまた、残業帰りなのだろうか。スピーカーからはコツコツとヒールの音が一定のリズムで聞こえる。
『絹川さんが寂しがっていたよ』
 ヒールが疲れたと嘆いていたのは、結婚式帰りの優菜だった。今この時の有紗も、ふくらはぎや足裏を痛めながらも耐えているのだろうか。
「まさか。俺達は別に付き合っているわけじゃないですよ」
『相変わらず分かってないな、森奥君。そんなだから、いつまでも独り身なんだよ』
 笑いながらそう言う有紗の声には、不思議と嫌味がない。
『あんた達が、恋だとか愛だとかそんな脆いものだけで繋がっているなんて、思わない』
 あまり触れた事のなかった有紗の真剣な声色が耳元で響き、透也は思わずアスファルトの上で立ち止まった。すぐ横を、サラリーマン達が邪魔そうに透也を追い越していく。
『森奥君の行動は、ちゃんと周りにも作用しているんだよ。森奥君が思うよりもずっとね』
 じゃあまたね、としばらく会っていない有紗の声がぷつりと切れ、透也はその場に立ち尽くしたまま、冬の風を頬に受けた。
 母親の言葉を呪いのように受け続けた自分は、上手く恋をできないのだと思っていた。それは一人で生きていくという事と同義で、その空白が透也の日々を苦しめていた。
 だけど、自分の生み出した価値観は絶対ではない。透也の疑っていた女同士の友情を見せつけてきた有紗のように、温かな家庭でも孤独に耐える優菜の姿があるように、世界には透也の見えていないものが多くあるのだろう。
 手に持ったままのスマホにメッセージが届いた。先ほど話したばかりの有紗からだった。
 【ところで、引越しの日はいつなの?】
 透也は返信をして、駅へと歩く。この街で過ごすのも、あとわずかだ。
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