2-13

文字数 2,926文字

 社内のシステムトラブルは無事に解決し、業務は日常的なものへと戻っていった。それでもトラブル対応の期間に遅れていた案件が溜まり込み、忙しい日々は続いていた。
「先輩、連休はどっか行くんすか?」
 隣の席でキーボードを叩きながら、真本が相変わらずの軽い口調で問う。気付けば毎年恒例の五月の大型連休目前となっていた。
「どうだろう……、何かまたトラブルが起こるかもしれないし」
「縁起でもない事を言うんじゃねーですよ」
 真本の乾いた笑い声を聞いていると、ふっと視界の端に白い紙が映った。視線を移すと、新入社員が玲にA4用紙を差し出している。
「出村さん、今お時間いいですか」
 はっきりとした口調で彼女が言った。その用紙は研修期間中の課題だった。そういえば、彼女の教育リーダーは半休を取っている。
 玲は用紙を受け取り、その内容を確認する。おそらく今後の業務に役に立たない、表面上の研修課題。それでもしっかりと真面目に取り組んでいる彼女の様子に好感を覚え、玲は顔をあげた。時計は午後六時を示している。
「お疲れ様。もう定時だからあがってもいいよ」
 用紙を返しながら玲が言うと、黒いスーツを着た彼女は以前と同じように、不服そうに眉をひそめた。
「私に何かできることはありますか」
 相変わらずの彼女の積極性に玲は驚きながらも、どこかで感激すら覚えている。その小柄な姿も、ナチュラルメイクによって引き立てられるぱっちりとした二重まぶたも、さらりとした黒髪も、何もかもが玲とは違うのに、若かった頃の自分と重ねてしまうのはなぜだろうか。
「たくさんあるよ」
 玲は答える。
「だから、研修期間が終わったら定時でなんか帰れないから、覚悟して」
 そう言うと、彼女は諦めたように頭を下げ、「お疲れ様です」と荷物を持って出ていった。
 隣からの気配を感じて目を向けると、真本がにやにやと気味悪く笑っている。
「先輩も、なんか雄臭くなりましたよね」
「……何言ってんだ」
「やっぱり同期の方とラーメン屋デートできる男は、違いますね」
 真本のからかいを聴きながら、玲はここ数か月の出来事を思い出す。
 三月の終わりの土曜日の出来事を、玲は忘れてはいない。あいりと名乗った女、柔らかな体、しっとりとした肌の感触に、刹那的な快感。あれから営業メールが一度だけ届いた。「どうしても辛くなったらまた指名してね」というあいりの言葉に対して嫌悪感は浮かばなかった。しかし、もう二度と頼ることはないと思う。
 人と関わるのが苦手な事も、恋愛経験がほとんどない事も、コンプレックスだった。女と触れ合う事で何かを得られるかと思っていた。でも、世界は何も変わらない。当然のように太陽は街に光を与え、吹き抜ける風は季節の気配を運んでくる。
 玲はデスクに置かれたユウナのアクリルスタンドに目を向ける。スウィートマンバは五月に新曲を出すらしい。相変わらずネットで情報収集をしているし、テレビのチェックも再開し始めた。玲の生活も結局何も変えられない。
「やっぱり、出村先輩は格好いいっすよ」
 俺も仕事で何かを成し遂げたいなー、と真本が椅子に座ったまま両手をあげて伸びをしているのを横目に、玲は手元に視線を落とした。何も変わっていないのに、何かがアップデートされたような感覚も、短くなった前髪によって広くなった視界も、くすぐったい。

 会社のビル点検の都合上で強制的にノー残業デーとなった四月終わりの水曜日。午後六時がずいぶんと明るい事を知った。
 ビルを出て空を仰ぐ。夜の気配を含み始めた青い空、明日もきっと晴れるだろう。
 少し前に見覚えのある背中が見えて、玲は追いかけるように早足に歩いた。
「絹川さん」
 玲が呼ぶと、カールされた髪を揺らすように優菜が振り返った。そこには驚愕の表情が浮かんでいて、前回彼女と何を話したのだろうかと玲は考える。
「お疲れ様」
「……お疲れ様」
 すっかり春らしい服装を着こなした優菜を見ながら、玲はいまさら沸き上がってくる動悸を抑えるように、ゆっくりと息を吸い込んだ。「出村君」と隣を歩きながら、優菜は言う。
「元気?」
「元気だよ、どうして?」
「発注システムの件、大変だったね。出村君がバグを見つけたって噂で聞いた」
 ああ、と曖昧に玲は笑う。優菜と並んで駅のある地下へと繋がる階段を降りていく感覚は新鮮だ。
「出村君」
 トートバッグからスマートフォンを取り出した優菜が、玲に言う。
「今度またあのラーメン屋に連れて行ってよ」
 午後六時の駅構内は多くの人々が行き交っている。スーツを着たサラリーマン、制服を着崩した高校生、流行りの服を身にまとった大学生に、玲の知る言葉ではカテゴライズできない人々も。
「絹川さん。俺と二人で飯なんか食って、彼氏は怒らないの」
 まるで誘導尋問だ。ずるい質問だな、と内心苦笑を覚えながら玲が言うと、優菜は目を丸くした後、ふっと笑った。これまで玲に見せなかった笑い方だった。
「彼氏なんか、ずっといないよ」
 玲は透也の顔を思い浮かべる。あの交差点での景色は、今でも鮮明に思い出せる。しかし、目に見えている事が全てではない。
 他人は畏怖の対象だった。自分の持たない表面的な言葉や声や雰囲気に脅(おびや)かされてきた。でも、案外世の人々も同じなのかもしれない。簡単に理解をできる存在ではないからこそ、言葉や愛を通じて互いを探っていくのかもしれない。目に見えない他人の心、その真実を。
「ていうか、そういうの関係ないよ。私達、同期でしょ」
 駅のざわめきの中で、少しトーンの高い優菜の声がクリアに響いた。
 そうだね、と玲が答えると、優菜は満足そうに笑い、スマートフォンをかざして改札の向こうへと消えていった。春らしい白いパンツが彼女によく似合っている。
 玲もゆっくりと改札口を通り、帰宅する為のホームへと降りた。そこから見える景色が昨日までとは変わっていて、玲は目を大きく見開く。
 地下鉄ホームの壁に設置されている看板には、スウィートマンバの三人がいた。右端に映るユウナは、今日も優しさと強さを込めた視線をこちらに向けている。スキャンダル騒動の後で叩かれた後でも、ユウナは何食わぬ顔で歌い続けている。
 ユウナは、玲にとって不可侵領域のアイドルだった。
 手に持ったままのスマホが震え、通知を見ると、透也からのメッセージが届いていた。
 【最近こっちは忙しいんだけど、元気? また近々飯に付き合って】
 二人で飲んだのはまだ二回だけなのに、まるで以前からの友人のようなメッセージに苦笑しながら、玲は返事をタップする。透也に会うのも、以前ほど億劫には思わない。
 ホームでは次の電車の到着がアナウンスされ始めている。黄色い線よりお下がりください。会社員や学生で溢れたホーム上に湿った風が吹き抜けていく。
 やがて入ってきた電車車両によってユウナの姿が見えなくなった。返事をし終えた玲は、電車に乗り込んだ後にスマホでSNSを開く。
 瞼の裏の残像にあるユウナの姿を思い返しながら、玲は五月に発売されるスウィートマンバの新曲について情報収集をし始めた。ハローワールド。今日の延長線上に存在する明日の気配を感じながら、電車に揺られていく。
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