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文字数 2,053文字

 最後に会った日から三年近くが経っているのに、彼女の名前を覚えている事に透也は愕然とした。
 待合室の白いソファーベンチに座っていた絹川(きぬがわ)優菜は、ゆっくりと顔をあげ、「透也君」と呼んだ。自分を覚えていた事実に安堵しながらも、透也は鞄を抱え直して、喉元を引き締めた。
 優菜の隣に座っていたのは、想像通り優菜の母親だった。
「透也君、教えて欲しいの……」
 三年前よりも弱々しい声色で、優菜はある病名について訊ねてきた。割とポピュラーな、しかし発見が遅れたら一気に生存率が下がる疾患だった。
 肩元で切りそろえられた優菜の黒髪が、消毒の匂いの混じった空気に触れてかすかに揺れている。その姿は、三年前のものとはずいぶんと雰囲気が異なるのに、どうして一目で彼女に気付いてしまったのだろう。院内に設置されているスピーカーから、医師を呼び出す放送が流れた。別の世界のように思っていた現実が、すぐ目の前にまで押し寄せる。
 職業柄、医療関係者相手に話す事には慣れていても、患者側の人間と話す経験はほとんどない。ネクタイを締めている首元が苦しくなるくらいには緊張を強いられ、入社当初の研修で学んだ知識を脳に巡らせる。
 三年前に何度か会った時には見せなかったような顔でぽつりと話し出した優菜の話によると、その病を診断されたのは優菜の父親のようだ。早期発見されたため命に別状はないと言われているが、今後さらに検査が行われ、状況によっては手術が必要かもしれないと告げられたとの事で、優菜がそれを言葉にした途端、隣にいた母親が崩れるように泣き崩れた。
「透也君、お仕事中なのにごめんね」
 平日の昼間の病院内。三年前にはコンサバ系のファッションを見せていた優菜は、黒いスウェット姿だった。彼女の疲弊度がよく見えて、透也は言葉を見失ったまま、ただ首を横に振った。
 社交辞令に似た言葉で挨拶をし、透也は二人に頭を下げてから病院の出入口に向かって歩いた。優菜の母親の嗚咽が耳に張り付いている。仕事で培った処世術は、肝心な場所では意味をなさない。
 何よりも、三年前にスマホアプリで透也をブロックしてきた優菜との再会に、透也は動揺していた。あんなにも分かりやすい形で拒絶されたのは初めてだったのだ。

 月曜日の安い居酒屋の店内は、どこか自堕落的な匂いで満ちている気がする。
 約束の時間より十分遅い、午後九時十分。店員の案内によって半個室のテーブルに通されると、待ち合わせの相手はすでにビールを飲んでいた。
出村(いでむら)
 透也が呼ぶと、スマートフォンで動画を見ていた出村(れい)がゆっくりと顔をあげた。
「ああ、お疲れ様」
「悪い、遅くなった。急に誘ったのはこっちなのに」
 店員からおしぼりを受け取りながら透也が言うと、玲は黙ってかぶりを振った。以前に会ったのは一か月前くらいだったと記憶しているが、どこか雰囲気が違うのは気のせいだろうか。
 透也は先の約束を好まない。透也の急な誘いと玲の都合が合った夜にはこうして二人で飲むようになって、三年近くが経つ。
「動画、何を見ていたんだ?」
「……新曲のMVとか」
「へえ」
 高校時代の同級生でもある玲が邦楽を始めとする音楽鑑賞を好んでいる事は、二人で飲んでいるうちに知った。クラスメイトだったといっても、当時はあまり話した事がなく、高校時代の記憶はずいぶんと色褪せている。
 注文した生ビールが運ばれ、半分ほどに減っている玲のジョッキに自分のものをぶつけ、透也は世間話を切り出した。
「最近、仕事はどう」
「んー、あんまりかな。外部委託していたデザインが上の指示とは合わなくて、色々ともめていたり」
 パソコン相手に仕事をしているいわゆるシステム系という情報サービス業で働く玲の話は、専門用語が飛び出せば半分くらいが意味不明だが、とても興味深く、面白い。モノトーンに似た、記号のみで形成された架空の世界。
 玲は自ら自分の話をする事はない。色褪せた記憶の中でも玲は一人で静かに過ごしていて、澄んだ空気感は当時から変わっていない。
「森奥君は?」
 どんな時でも玲の姿は一定だ。どんな季節でも常にネクタイをきっちりと結び、声の抑揚はほとんどなく、気分にむらがない。透也の職場に渦巻いているような闘争心や虚栄心といった感情とも無縁に見える。だから一緒にいて心地よく、透也は玲と過ごす時間を気に入っているのだ。
「俺は……」
 ビールの苦みを喉の奥に覚えながら、透也はつぶやいた。今夜はどうしても一人にはなりたくなかった。スマホのアドレス帳を探り、玲と約束ができてよかったと思う。
 昼間からつっかえている動揺を押し込めるように、透也はもう一口ビールを飲み込む。
「昔に連絡先をブロックしてきた女と、再会した」
 透也は今日の昼間について思い出す。うんざりとした顔を隠さない医師、受診に疲れた患者の姿に、待合スペースで身を寄せ合う母娘。
「ブロックしてきた女……?」
 昼間の出来事を脳内で反芻していると、普段はあまり表情を動かす事のない玲が、可笑しそうに片頬を歪めた。
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