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文字数 2,315文字

 十二月になると、街中ではますます恋愛至上主義の空気が濃縮され、あらゆるところでそれらの生成物を見つけるようになる。赤と緑で装飾されたプレゼント、イルミネーションで客を釣るデートスポット、そして、寒空の下で響くバラード調のラブソング。
 営業先から会社までの途中にある、街中の浮かれた空気から帰社すると、部署内に漂う重たい空気に安堵する。文字通り地に足をつけている感覚だ。
「森奥」
 エアコンの音とキーボードを叩く音だけが響いている営業部署内で、直属の上司である鹿田の穏やかな声が響き、透也は顔を上げた。
「はい」
「ちょっと付き合ってよ」
 右手の親指でドアを指され、透也はキャスター付きの椅子からゆっくりと立ち上がった。鹿田の後をついていくように、廊下を歩く。午後八時の廊下は暖房が切れたせいか、少しだけひんやりと冷たい。
 エレベーターに乗って上のフロアに上がる。いつかの異動宣告を思い出すが、こんな時間に面談などがあるわけもなく、戸惑いを隠せないうちにエレベーターは三階上に到着した。会議室などが並んでいるこのフロアに、人気(ひとけ)はないようだ。
 そのまま再び鹿田の後を歩くと、営業部フロアにもある喫煙スペースに着いた。
「鹿田課長、お煙草を吸われましたっけ?」
 ドアを開ける鹿田に思わずそう声をかけると、鹿田は悪びれなく笑った。
「普段は吸わないんだ。だから一本くれよ」
 夜には使われていないフロアは全体的に暗く、大きな窓から入る夜の光が狭い喫煙スペースを照らしている。透也はジャケットのポケットから煙草の箱を取り出し、鹿田に渡した。
 直属の上司とはいえ、必要以上に話した事はほとんどなかった。二人きりになるのも、面談や仕事の同行を除けば初めての事かもしれない。
 透也が貸したライターが、鹿田の手元と頬をオレンジ色に染めている。透也はこれから切り出されるであろう話題を巡らせた。十一月の成績についてか、もしくは。
「森奥、向こうの物件は決まったか?」
 もうひとつの予想が鹿田の柔らかな口調で響き、透也も煙草に火を付けながら、うなずいた。
「はい。人事部の候補がとても分かりやすかったので」
「引越し、二回目だっけ? 準備は進んでいるか?」
「やっと業者に見積もりをお願いしたところですね」
 照明の付いていない狭いスペース内で、白い煙が天井や灰皿横に設置された換気扇に吸い込まれていく様子がよく見えた。
「十一月は、頑張っていたな」
 ガラス張りになっている壁の手すりに背を預け、鹿田は言う。
「例の有害事象や副作用についても、よく調べてくれたよ」
「いえ……」
 売上の一部を占めている大病院にて、一時は透也の担当している医薬品の採用が中止になりかけたが、透也の働きかけもあり、採用中止は撤回となった。
 医薬品は、毒にも薬にもなり得るものだ。安全性や副作用情報をいかに早く正確に伝えていくか、透也の仕事はそこに尽きる。売り上げの為じゃない、顔の見えない患者に使われるもの。
 透也は窓の外を見下ろした。点在している光が冬の空気に滲み、輪郭を曖昧にしている。繁華街ほどではなくとも、所々に冬特有の明かりが見えるようだ。恋人達が肩を寄せ合う季節。
「ここから見える景色は綺麗だろう」
 透也と同じように外を眺めている鹿田の横顔は、年相応に照らされている。
「もしかしたら、ここは鹿田課長の秘密の場所だったんじゃないですか」
「定時後限定の、だけどな。森奥には特別に教えてやる」
「僕はもうすぐいなくなりますが」
「それは残念だ」
 声にならない笑いをこぼした鹿田は、灰皿に煙草を押し付け、透也を見た。
「森奥。転勤は、不服か?」
 端的な質問に、透也は煙草をくわえたまま、思わず笑ってしまった。
「まさか、そんな事はないですよ」
「こんな事を言ったらセクハラを訴えられるのかもしれないけれど……、恋人もいるんだろう?」
 きちんと予防線を張ってから問いかけるのが鹿田らしい。こんな時でも透也は答えを詰まらせる。自分の磨いてきた完璧さはとうの昔に綻び始めているというのに。
 先ほど鹿田の使った灰皿で、透也は煙草の火を消す。
「そんなの、いないですよ」
「意外だな。おまえはモテそうなのに」
「僕の攻略できていない課題です」
 無意識的に手すりを持っている鹿田の左手薬指には、いつもシルバーリングが嵌められている。透也がこの支店に異動し、鹿田と知り合った頃、鹿田は単身赴任をしていると聞いた事があった。家族は東北にいるという。
 離れてでも守りたい家族の存在の意味を、きっと透也は理解していないままなのだろう。
「攻略なんて、俺もできていないけれどな」
 自嘲を交えた透也の言葉に対して、既婚者の鹿田は言う。
「恋愛感情なんて、アドレナリンやドーパミンの作用にすぎないからさ。科学的に解明してしまえば、非常に単純な脳内物質によるものだ」
 鹿田の結婚指輪がきらりと光ったのは、きっと気のせいではない。
「自分でも不思議に思うよ。でも、今となっては俺にとって家族はなくてはならない存在なんだ。哺乳類が本能的に光や水や酸素を求めて生きているのと同じように」
 今夜も街の空の下には多くの光が灯されている。寒空の下で、今日も愛に溢れる者、愛に飢えている者、さまざまな人間が行き交っているのだろう。
 寄り添った恋人達の行き先にある幸せは、きっと脆く儚い。子供の頃からそれを間近で見てきた透也にとって、大人になった今でも愛とは畏怖の対象だ。だからこそ、当たり前のようにそれらを享受している鹿田を、羨ましいとも思う。
 そろそろ戻ろうか、という鹿田の一言によって、透也は小さな光を浴びている喫煙スペースを出た。仕事はまだ残っている。
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