1.出来損ないのヒロイン
文字数 2,408文字
女が集まると恋愛話で盛り上がるのはなぜなのだろうか。
自社ビル総務部のある三階フロアの女子トイレに足を踏み入れた絹川 優菜 は、しまった、と思わず顔をしかめた。白を基調とした化粧室内、洗面台の前には三人の女性社員集まっている。
「最近、彼氏がさー……」
社内でも目立っている二年先輩である有紗 が、ファンデーションを頬に叩きながら、ハスキーがかった声でつぶやいている。
恋にまつわる話は人類共通語みたいだ。ドラマ、歌、映画など世間の流行に乗るそれらの多くには恋愛沙汰が絡められ、世間が恋愛至上主義で成り立っている事を示しているようだ。
「あ、絹川さん、お疲れ様ー」
優菜に気付いた有紗が鏡越しに微笑み、その両隣にいた二人も振り返ってじっと優菜を見た。部署の違う有紗の同期、確か経理部の所属だっただろうか。
お疲れ様です、と微笑み返した優菜は、洗面台の一番端に立ち、手に持っていたポーチを開けながら小さくため息をついた。
視線を落としてちらりと覗いた腕時計は、十二時四十分を示している。昼休憩の終わる午後一時前にはこうして三階の女子トイレが女子会会場と化している事を把握していた優菜は、普段は別のフロアのトイレを使用するようにしていた。しかし、今日は仕事が立て込み、パソコンの前で非常食を摂取しただけだったので、時間感覚を失っていた。迂闊だった。
優菜の存在に気にかける事もなくいわゆる恋バナを繰り広げていた有紗達は、ふと話題の方向転換を行ったようだった。
「そういえば、情シス部の出村 ってさー」
聞き覚えのある固有名詞に、歯ブラシを持っていた手を止めた優菜は、さりげなさを装って歯を磨きながら三人の話に聞き耳を立てる。
「出村って誰だっけ?」
「なんかアイドルオタクって言われている人」
「あー、デスクにもアイドルの写真飾っている人だっけ」
情報システム部に配属されている出村玲 は、優菜の同期である男性社員だ。恋バナとは別方向で盛り上がり始めた先輩達の言う通り、彼はデスクにもアイドルグッズを並べている自他共に認めるアイドルオタクであるらしい。
事実を述べているだけの有紗達の口調に嘲笑が混ざってきている事に気付いた優菜は、水道水で口をゆすいだ。
「そういえば絹川さんって出村と同期だったよね」
その質問に意味は含まれていない。好奇心のみでの問いに、優菜はハンカチで口を拭いながら、有紗を見た。
「同期なんですけれど、あんまり喋った事ないんです」
自分は先ほどと同じように、自然な笑顔を保てているだろうか。
「あー、それもそうだよね」
あんなアイドルオタクとはね、という有紗の言外を読み取った優菜は、後ろめたい優越感に駆られていた。
他人に陰口を叩かれる事を何よりも恐れていたのに、他人の悪口を聴く事に関してはどこかで安心感を覚えてしまう。女同士の連帯感。
「そういえば絹川さん、今週の金曜日に飲み会があるんだけど、よかったらどう?」
浸っていた安心感を裏返すように、有紗が言った。優菜は内心、再び後悔を覚えていた。やっぱりこの時間に三階の女子トイレに来るのは間違っていた。
午後十二時四十四分。明るい蛍光灯に照らされた大きな鏡の前に、愛想笑いを張り付けた自分の姿が映っている。見栄えを意識したメイクと、女らしさを意識した栗色のロングヘア。
二十七歳にもなって、優菜はまだ女子の輪に馴染めない。
その日の午後七時、勤務を終えた優菜はデスクワークで凝り固まった肩をほぐしながら、エレベーターのボタンを押した。入社時に親に買ってもらった腕時計を確認していると、軽やかな電子音と共に重たい扉が開いた。
「あ……」
エレベーター内の眩しい照明の下に立っていた姿を見て、頭の中で有紗の声がよぎった。昼休みの女子トイレで話題になっていた人物。
「お疲れ様です」
エレベーター内のドアのすぐ横で開のボタンを押していたのは、優菜の同期である出村玲だった。野暮ったい前髪と黒縁眼鏡のせいで、表情はよく見えない。「お疲れ様です」と返した優菜は、視線を合わせないようにしながら玲の後ろに立った。
コートを着ていない丸まった背中を見つめる。親しくない人間とエレベーターで乗り合わせてしまう状況には、いつまで経っても慣れない。
「残業……」
背を向けたままぼそりとつぶやかれた言葉に、思わず顔をあげて「え?」と訊き返すと、微動だにしない玲が、少しだけ声を張って言った。
「残業、してたの? 定時より一時間遅いけれど……」
「あー……、うん。伝票の入力が終わらなくて」
畑違いの部署の同期との距離感は難しい。玲の口調にならうように優菜が答えた時、エレベーターが一階に到着した。この狭苦しい空間からようやく解放されるというのに、会話の不完全さに気持ち悪さを覚えた優菜は、開のボタンを再び押し始めた玲を追い越しながら視線を向けた。
「出村君は、まだ残業するの?」
優菜が訊き返した事に対して驚愕を示すかのように、玲はボタンを押し続けたまま動かない。「エレベーター止めたままになっちゃうよ」と優菜が笑ってみせると、我を取り戻したかのように玲はようやくボタンから手を離し、優菜に続いてエレベーターを降りた。
午後七時のエントランスの空気はしんと冷たい。エレベーターが閉まった事で一気に視界は暗くなり、入口に立っている警備員の「お疲れ様です」という声がやたらと響いた。
「俺も、もうちょっと、やる事があるから……」
しばらくのタイムラグを放って、優菜の後ろで玲が答えた。振り返らずともコートを着ていない玲の猫背が目に浮かんだ。彼はこれからコンビニで夜食でも調達しに行くのだろうか。
お疲れ様、ともう一度言い放った優菜は、今度こそ玲の返事を待たず歩き出した。
車道を走る車のヘッドライトが、冬の空気を照らしている。ロングヘアごと首元に巻いたマフラーに顔をうずめながら、優菜は地下鉄の駅へと歩く。
自社ビル総務部のある三階フロアの女子トイレに足を踏み入れた
「最近、彼氏がさー……」
社内でも目立っている二年先輩である
恋にまつわる話は人類共通語みたいだ。ドラマ、歌、映画など世間の流行に乗るそれらの多くには恋愛沙汰が絡められ、世間が恋愛至上主義で成り立っている事を示しているようだ。
「あ、絹川さん、お疲れ様ー」
優菜に気付いた有紗が鏡越しに微笑み、その両隣にいた二人も振り返ってじっと優菜を見た。部署の違う有紗の同期、確か経理部の所属だっただろうか。
お疲れ様です、と微笑み返した優菜は、洗面台の一番端に立ち、手に持っていたポーチを開けながら小さくため息をついた。
視線を落としてちらりと覗いた腕時計は、十二時四十分を示している。昼休憩の終わる午後一時前にはこうして三階の女子トイレが女子会会場と化している事を把握していた優菜は、普段は別のフロアのトイレを使用するようにしていた。しかし、今日は仕事が立て込み、パソコンの前で非常食を摂取しただけだったので、時間感覚を失っていた。迂闊だった。
優菜の存在に気にかける事もなくいわゆる恋バナを繰り広げていた有紗達は、ふと話題の方向転換を行ったようだった。
「そういえば、情シス部の
聞き覚えのある固有名詞に、歯ブラシを持っていた手を止めた優菜は、さりげなさを装って歯を磨きながら三人の話に聞き耳を立てる。
「出村って誰だっけ?」
「なんかアイドルオタクって言われている人」
「あー、デスクにもアイドルの写真飾っている人だっけ」
情報システム部に配属されている出村
事実を述べているだけの有紗達の口調に嘲笑が混ざってきている事に気付いた優菜は、水道水で口をゆすいだ。
「そういえば絹川さんって出村と同期だったよね」
その質問に意味は含まれていない。好奇心のみでの問いに、優菜はハンカチで口を拭いながら、有紗を見た。
「同期なんですけれど、あんまり喋った事ないんです」
自分は先ほどと同じように、自然な笑顔を保てているだろうか。
「あー、それもそうだよね」
あんなアイドルオタクとはね、という有紗の言外を読み取った優菜は、後ろめたい優越感に駆られていた。
他人に陰口を叩かれる事を何よりも恐れていたのに、他人の悪口を聴く事に関してはどこかで安心感を覚えてしまう。女同士の連帯感。
「そういえば絹川さん、今週の金曜日に飲み会があるんだけど、よかったらどう?」
浸っていた安心感を裏返すように、有紗が言った。優菜は内心、再び後悔を覚えていた。やっぱりこの時間に三階の女子トイレに来るのは間違っていた。
午後十二時四十四分。明るい蛍光灯に照らされた大きな鏡の前に、愛想笑いを張り付けた自分の姿が映っている。見栄えを意識したメイクと、女らしさを意識した栗色のロングヘア。
二十七歳にもなって、優菜はまだ女子の輪に馴染めない。
その日の午後七時、勤務を終えた優菜はデスクワークで凝り固まった肩をほぐしながら、エレベーターのボタンを押した。入社時に親に買ってもらった腕時計を確認していると、軽やかな電子音と共に重たい扉が開いた。
「あ……」
エレベーター内の眩しい照明の下に立っていた姿を見て、頭の中で有紗の声がよぎった。昼休みの女子トイレで話題になっていた人物。
「お疲れ様です」
エレベーター内のドアのすぐ横で開のボタンを押していたのは、優菜の同期である出村玲だった。野暮ったい前髪と黒縁眼鏡のせいで、表情はよく見えない。「お疲れ様です」と返した優菜は、視線を合わせないようにしながら玲の後ろに立った。
コートを着ていない丸まった背中を見つめる。親しくない人間とエレベーターで乗り合わせてしまう状況には、いつまで経っても慣れない。
「残業……」
背を向けたままぼそりとつぶやかれた言葉に、思わず顔をあげて「え?」と訊き返すと、微動だにしない玲が、少しだけ声を張って言った。
「残業、してたの? 定時より一時間遅いけれど……」
「あー……、うん。伝票の入力が終わらなくて」
畑違いの部署の同期との距離感は難しい。玲の口調にならうように優菜が答えた時、エレベーターが一階に到着した。この狭苦しい空間からようやく解放されるというのに、会話の不完全さに気持ち悪さを覚えた優菜は、開のボタンを再び押し始めた玲を追い越しながら視線を向けた。
「出村君は、まだ残業するの?」
優菜が訊き返した事に対して驚愕を示すかのように、玲はボタンを押し続けたまま動かない。「エレベーター止めたままになっちゃうよ」と優菜が笑ってみせると、我を取り戻したかのように玲はようやくボタンから手を離し、優菜に続いてエレベーターを降りた。
午後七時のエントランスの空気はしんと冷たい。エレベーターが閉まった事で一気に視界は暗くなり、入口に立っている警備員の「お疲れ様です」という声がやたらと響いた。
「俺も、もうちょっと、やる事があるから……」
しばらくのタイムラグを放って、優菜の後ろで玲が答えた。振り返らずともコートを着ていない玲の猫背が目に浮かんだ。彼はこれからコンビニで夜食でも調達しに行くのだろうか。
お疲れ様、ともう一度言い放った優菜は、今度こそ玲の返事を待たず歩き出した。
車道を走る車のヘッドライトが、冬の空気を照らしている。ロングヘアごと首元に巻いたマフラーに顔をうずめながら、優菜は地下鉄の駅へと歩く。