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文字数 1,777文字

 久しぶりの店舗勤務は脚全体に負担をかけていた。立ち仕事の過酷さをふくらはぎの浮腫みで実感しながら、優菜はどうにか帰宅した。自宅のリビングのソファーに崩れるように座り込むと、キッチンにいた母に呆れられた。
「馬鹿ね。あんなに高いヒールなんて履いていかなきゃいいのに」
 コートも脱がないまま足裏をマッサージし始める優菜に母親はそう言うが、これは二十四歳の頃までの優菜の日常だった。どんなに疲れても、決してヒールを低くする事はありえなかった。ヒールの高さは、自分にとっての覚悟のしるしだったから。
 ダイニングテーブルでは、父親が座ってのん気にコーヒーを飲んでいる。
「おかえり、優菜」
「ただいま。ごめんお父さん。在庫に余裕がなくてお父さんへのチョコ、買って来られなかった」
 マッサージをした事で、疲弊した身体に温度の通った血液が少しずつ巡っていく。ようやくソファーから立ち上がり、コートを脱ぎながら優菜が言うと、「いいんだよ」と父親は優しく笑った。
「優菜が元気に働いているだけで、立派なプレゼントだよ」
 世間では思春期の娘が父親を毛嫌いするという事例が少なくないようだが、優菜にはそのような過去が存在しない。対面型のキッチンでは、母親が優菜のための夕食を温め直している。午後九時過ぎ。自分が生まれた時から成り立っている三人家族というひとつの箱を、形を変えながらも今もこうして持続できているのは、両親のおかげだった。
 やっぱり他社メーカーのものでもいいから両親に何かを買えばよかったな、と優菜は後悔をする。
「お父さんは、お母さんからバレンタインに何かもらった?」
 二階の自室で着替えを済ませてから再びリビングに降りると、テーブルには夕食のビーフシチューが置かれていた。優菜の問いに、父親の前に座っていた母親が前のめりに話す。
「今年はアレ、アレを買ってきたのよ。テレビで紹介されていたの」
「アレじゃわかんないよ」
「まだ開けていないから、優菜の夕飯が終わってからみんなで食べよう」
 母親からの毎年恒例の贈り物に喜びを隠さない父親が、目尻に皺を寄せて微笑む。優菜はスプーンでビーフシチューを掬い、口に入れた。とろりとした温度が、冷えていた全身を温めていく。夜にはテレビを付けない習慣の優菜の家は、静寂さとは無縁だ。それは、三人が三人ともそれなりに話をしているからだ。
 理想の家族の形だと思う。両親は世間一般から見ても仲の良い夫婦だと言われるのだろう。
 優菜も大人になればそういう相手と巡り合えるのだと思っていた。俗に言う運命と呼ばれるもの。両親のように、温かい家庭を築けるのだと思っていた。
 最近、二軒隣の一つ年下の幼馴染が結婚をしたらしい。向かいの家の二つ上の男の子は、時々奥さんと子供を連れて帰省している。
 両親は、優菜に何も訊かない。何を急かす事もない。その優しさが少しだけ苦しかった。

 翌朝、久しぶりの店舗勤務による疲労の残る身体で目を覚ました優菜は、寝ぼけた頭でニュースアプリを開いた。いつもの習慣だ。布団からはみ出した頬や鼻が冷たく、しばらく布団の中で過ごしたい。普段ならそうやって惰性にニュースを眺めているのだが、その日は違った。
 スマートフォンに映し出されたニュースの見出しを見て、優菜は一気に飛び起きた。
 部屋着のニットカーディガンを羽織り、慌てて部屋を出て階段を降りる。リビングでは、いつもの朝のテレビ番組が流れている。
 おはよう、とキッチン越しから微笑む母親への挨拶もそこそこに、顔を洗う事も忘れて優菜はテレビの前に立った。
 【スウィートマンバのメンバー、サキ(二十二歳)熱愛発覚!】
 ネットで見たニュースと同じ内容の見出しが、テレビ画面の右上にも表示されている。 製菓業界ではバレンタインの終わった今、次の勝負時はホワイトデーと卒業や異動などの送別行事だ。優菜の勤務する会社は、この勝負を狙ってスウィートマンバを起用したはずだ。今日にも宣伝などと一緒にそれがオープンになるのではないだろうか。
 心臓の奥側がどくどくと嫌な音を立てた。送り込まれていた宣伝資材や販促物を思い出す。メンバー三人の、甘ったるくも挑戦的な視線。
 ふと、同期の玲を思い出した。メンバーの写真をデスクにも飾るほどの、熱烈なファン。彼が三人のうち誰を好きなのか、優菜は知らない。
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