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文字数 2,758文字

 学生時代に輝かしい思い出はない。
 運動音痴というだけで駄目人間のレッテルを貼られた小学校時代も、コミュニケーションを上手く取れない事でクラスの輪に溶け込めなかった中学校時代も、指定された制服を格好よく着こなす事もできずに野暮ったい姿で過ごした高校時代も、派手な服装が似合っている男女グループの笑い声が響いた講義室の端でただひたすら携帯電話を弄っていた大学時代も、玲にとっては空気と一体化していくように身を潜めているだけの日々だった。
 森奥透也は、高校時代のクラスメイトだ。クラスの中心的な存在だった透也はヘアワックスで短髪をおしゃれに整えていて、自分の似合うように制服を着こなしていた。ネクタイの結び目も、ズボンのベルトの位置も、自身の最善をよく知っていた。
 朝、登校すると玲の机はいつも誰かに占領されていた。透也やその周囲にいる友人達の存在感は強烈で、ある日は長めの茶髪をヘアピンで留めた男子が、ある日はプリーツスカートから惜しみなく長い足を見せている女子が、玲の席の椅子に座って、もしくは机に座って、仲間達と笑い合っていた。
 もちろんそれはいじめでもなんでもなく、玲の姿に気付けば彼らは「ごめーん」と言って退いてくれる。彼らに悪気はない。だからこそ、朝から惨めな気持ちにさせられ、周囲の声を遮断しようとバリアを厚くすればするほど、それらは棘のように耳の後ろを鋭く撫でた。

「突然誘って悪かったな」
 チェーン居酒屋の半個室になっているテーブルで、目の前に座っている二十七歳の透也が控えめに笑った。
 駅で会った透也は、不安を隠さない面持ちで玲を飲みに誘ったのだ。断れなかったのは、透也と簡単に挨拶を交わした真本に背中を押されてしまったからだ。せめてお洒落さとは無縁の安い居酒屋という妥協を押し付けて、今こうして透也と向かい合っている。
 一月に再会した時の透也もスーツを着ていたが、その時はあくまでパーティー用の姿だった。サラリーマンとしての透也に会うのは初めてだ。しかし、スーツの上に黒いコートを着て繁華街を歩いていた透也を、玲は知っている。
「森奥君の会社って、この辺じゃないよね。何か用事でもあった?」
 例えば絹川さんに。口から零れそうになった固有名詞を生ビールと一緒に飲み込みながら訊ねると、透也は口元だけで笑い、玲のものと同じジョッキを手に持った。
「出村、今日は飲んで大丈夫なのか?」
「……今日は大丈夫なんだ」
「そっか。出村にもこうやって自由になる時間があるならよかった」
 恩師の退任パーティーで飲まなかった言い訳を今でも真摯に受け止めてくれる透也に対して、わずかな罪悪感を覚えながら、玲はジョッキを持ったまま透也を眺めた。以前に会った時とは様子が違うのは気のせいだろうか。
 木曜日の仕事帰りのせいか、透也の表情にははっきりとした疲れが浮かんでいるようだった。
 玲は、先ほどの自分の質問をかわされた事に気付いてはいたが、それを指摘できるコミュニケーション能力を持っていれば、あんな学生時代を送ってはいない。
 半個室となっている扉がノックされ、大学生風の女の店員によって料理が運ばれてきた。文字通り温度の通っていない酒のあてを眺めていると、「ごゆっくりどうぞ」とばっちりメイクを施した女の店員が透也に微笑みを残し、ドアを閉めていった。
「森奥君は、相変わらずだね」
 目の前に置かれた枝豆を手に取りながら玲が言うと、透也は意外そうな表情を浮かべた。
「どういう意味?」
「高校の時もそうだった。何をするわけでもなく、いつも周りに人がいたよね」
 教室は、学生にとっての小さな世界だ。
 スポーツ万能の生徒、成績のいい生徒、話し上手な生徒。暗黙の了解で存在した階層の頂点にいる生徒達は、活発で、おしゃべりで、良くも悪くも感情に正直で、小さな世界の中心にいた。彼らは男女共に人気があり、そして当然のように恋人とくっついたり別れたり、玲にとって難題にも思える行動をあっさりとこなしていた。
 整えた髪型だったり、ピアスの空いた耳元だったり、緩めたネクタイだったり、そういったアイテムを持った男子生徒達は、恥ずかしがることもなく女子生徒とのあれこれを大声で話していた。きっと思春期の男であれば誰でも興味があるであろう性体験についても赤裸々に話す姿は、青春を謳歌している普遍的なものだった。ただ、そこに玲が混ざれなかっただけだ。女子どころかクラスメイトの男子とすらまともに話せない玲が、その世界に溶け込めるはずもなく、しかしどこかで夢を見ていたのかもしれない。数々と溢れる見えない線を越えられる日を。
 しかし、現実はそんなに甘くない。物事は簡単には変わらない。
 登校した玲に、「ごめーん」と甘い声を出す茶髪の女子生徒は、玲に見向きもしない。クラス一丸となって戦いに挑む体育祭では、玲は透明人間だ。
 放課後に教室の端で手を繋いで語り合う男女を眺めながら、自分には縁のない世界だと思った。例え誰かを好きになる事があっても、自分が相手にされるはずがない。下手すれば気味悪がられて、教室での居場所を失ってしまうかもしれない。
 そうやって自分自身を諦めてきた。普通の人々が普通にできる事を、玲にはできない。スーツを着て会社に通っていても、本質は変えられない。
「出村は、さ」
 綺麗な箸使いでたこわさをつまみながら、透也が言う。
「付き合ってる人、いるのか?」
 玲は指先で持っていた枝豆をぽろりとテーブルに落とした。思わず耳を疑ってしまったのだ。それは、以前に玲が透也に訊ねた言葉だ。同じ教室にいた事以外に何の共通点のない相手に対しての、苦し紛れの世間話の糸口だった。
 それは森奥君が嫌っている話題じゃなかったの?
 喉まで声が滲み出たが、結局音にならないまま枝豆と一緒に飲み込まれてしまった。その様子に気付いたのか、透也がふっと笑った。
「そういうくだらねー質問、俺が訊く権利はないよな」
 平日の夜だというのに、個室の向こう側からは男女の入り混じった笑い声が響いている。大学生の飲み会だろうか。玲にとって、最も縁のなかった世界。
「……いるわけないでしょ」
 言葉に落とす事で、なおさら惨めさが頭の上に積もっていった。教室の中での唯一の居場所だった自分の席が他人によって占拠されていた朝と同じくらいに。
 優菜を好きになるつもりなんてなかったのだ。しかし、社内にある悪意に溶け込んでいない優菜と話す時間が特別になってしまった。出勤時にエレベーターを並ぶ時、昼休憩時に廊下を歩いている時、ふと優菜の姿を探し始めてしまった。心は簡単に自分を裏切る。
 そして、少しでも近づけたと思った優菜の隣を当然のように歩いていた透也に対して、どうしようもない苛立ちを覚えている。
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