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文字数 2,755文字

 特に会話が盛り上がる訳もなく、二時間も経たないうちに店を出た。「お礼だから」と食事代をすべて優菜に支払われ、「ほんの気持ちですが」という常套句と共に和菓子を紙袋ごと渡され、透也は紙袋を手に持ち、優菜と並んで駅に向かった。
 その途中で、三週間前にテレビ放送されたミステリー映画の話題になった。
「私、あれは原作のほうが好きだったな」
「なんで?」
「だって、映画も悪くなったけれど、主役の雰囲気ちょっと違うと思わない? なんというか、原作だったらもっとサッパリしていたというか」
 トーンの高すぎない優菜の声が、耳にぴったりと当てはまっていく。疲労と孤独感に包まれた日曜日の夜を共有できたような気分になり、映画を観終わった時に生まれた消化不良が時間差を置いて昇華されていくようだった。
「あー、俺もそれ思った」
「透也君も?」
「SNSを見ても、二人の恋の行方が気になるっていうコメントばっかりあって、なんでかなって」
「だよね! 原作であの二人がいい感じになるシーンなんて、なかったのに」
 すぐ横の車道を走る車のヘッドライトが優菜の横顔を映しては去っていく。街は季節の気配を醸し出さない。それでも、漂う冷たい空気が鼻筋をつんと冷やしていく。
 三年前もこうだったなと思う。真冬の冷たい空気にさらされながら、優菜と過ごす時間は意味のあるものだった。少なくとも透也にとっては。
「嬉しい」
 透也の隣で、優菜がぽつりとつぶやいた。
「私がおかしいんだと思ってた」
 午後八時過ぎの駅前の交差点は、夕方よりもいっそう浮き足立った空気が漂っている。信号機の音がやたら機械的に響き、背の高い電光広告塔では夕方に見た時と同じ、スウィートマンバのミュージックビデオが映っている。
「あ、スウィートマンバだ。新曲出るんだね」
 さらりとスイッチを切り替えるように、優菜が空を仰ぐように視線をあげた。
「好きなの? スウィートマンバ」
「んー、私がっていうより、同期の子がファンで。なんとなく目につくようになったかな」
 そういえばそういった事を聞いたかもしれない三年前を頭の隅に押しやりながら、透也は今の時間を思う。
「優菜ちゃん」
 信号が赤に変わり、透也と優菜は並んで横断歩道の前に立った。どこから湧いてくるのか、一瞬にして周囲の人口密度が跳ね上がる。
「さっきの映画の話だけど、優菜ちゃんだけがおかしいわけじゃないよ」
 夜空に光を滲ませている電光広告塔からは、大音量で歌声が響き渡る。三人の中でも特に歌唱力があると言われているユウナの澄んだ歌声が、愛を語る。冬が近づくと定番のように溢れるラブソングのひとつ。
 透也の隣で、黒髪を揺らしながら優菜がふっと笑った。
「そういえば、透也君って恋だの愛だのの話をする人が嫌いだって言ってたよね」
 再び信号が青に変わり、甲高い電子音が交差点に鳴り響いた。透也は周囲の流れに乗るように、横断歩道を歩き出す。
「だって、俺はそういった恋愛事によって台無しになった人生を送っている奴を知っているからさ」
 身に覚えのある心地よさが、優菜のいる右側からじわじわと浸食していく。まずいな、と思う。もっと優菜と一緒にいられたら、このぬるま湯に浸っていられるのだろうか。透也は手に持った紙袋の重みを手のひらに噛みしめていく。
 駅に着き、「またね」と先に言ったのは優菜だった。三年前と同じ路線のホームに向かう優菜の後ろ姿を見送り、透也も電車に乗って自宅へと向かう。
 デニムパンツのポケットに突っ込んでいたスマートフォンを手に取ると、メッセージが届いていた。母親からだった。

 翌日の日曜日は朝から小雨が降っていた。
 気に入っているブランドのキーホルダーに付けられた実家の鍵をまわして玄関のドアを開けると、途端に子供の頃の情景に引っ張られた。嗅覚は記憶に直結しているという。
 砂ぼこりひとつ落ちていない玄関で靴を脱ぎ、ホルダーにかかっていた来客用のスリッパを履いてリビングに入ると、母親がソファーに座ってテレビを見ていた。
「あら、帰ってきたの」
 昨夜に愚痴っぽいメールを送ってきた張本人は、悪びれる様子もなくため息をついた。
「せめてチャイムを鳴らしてちょうだい。急に入って来られたらびっくりするじゃないの」
 先月に透也がやって来た時にチャイムを押したら、「自分の家なんだから鍵を使ってちょうだい」とぼやいた事を、この母親は覚えているのだろうか。話に筋が通っていない点についてはいつもの事なので、透也は軽い謝罪を口にして、手に持っていた和菓子メーカーの紙袋を母親に差し出した。
「何よ、これ?」
「知り合いからもらったんだ。母さんにと思って」
「私一人で食べろって言うの?」
「一緒に食べようよ。コーヒー淹れるね」
 サービス業勤務である父親は、今日も仕事なのか不在だ。父がこの家にいる事はほとんどない。
 透也の実家は、今住んでいるマンションから電車に乗って約四十分、さらにそこからバスに乗り継いでようやく着く住宅街の中にある。大学入学を機に一人暮らしをしているが、就職してから地方にいた数年を除いては、時間ができれば可能な限り実家に顔を出すようにしていた。
「あら、ここの和菓子屋さん、私好きだわ」
 ソファーに座ったまま、がさがさと音を立てながら紙袋から箱を取り出す母親の機嫌が上向きになり、透也はほっと息をついた。リビングと対面となっているキッチンに立ち、古いコーヒーメーカーに挽いた豆をセットする。次第に軽い沸騰音と共に、コーヒーの香りが心地よく漂ってきた。
「そういえば、お隣のタナカさん、ご夫婦二人で旅行中ですって」
 普段使いのマグカップにコーヒーを注ぎ、ソファー前にあるローテーブルに置くと、先ほどまで鼻歌を口ずさみそうなほど上機嫌だった母親が、声色を変えて言い出した。
「いいわよね、有休か何か知らないけれど、平日を使って旅行。老後の心配もなく、悠々自適に暮らせるなんて」
 昨日透也が優菜から受け取った和菓子を頬張りながら、刺々しい言葉を吐き出す母親を見て、透也は口元に力を入れた。いつもの事だ、何てことない。口角を上げて、じっと母親の言葉を待つ。
「それに比べて、私なんてこの有様よ。こんな日曜日にまで仕事に行かないとやっていられない人と結婚したせいで、旅行にも行けやしない」
 窓の外で降り続けている雨音が強くなっていく。まだ午後二時だというのに、レース越しに見える景色は薄暗い。
「あんな人と結婚しなければよかった」
 予想通りの捨て台詞。ガーデニングを施された庭を打ち続ける雨音に捕らわれないように、こわばりそうになる頬をどうにか笑顔で保ちながら、透也はゆっくりと箱から大福を手に取った。甘いものはそんなに好きではないのに、餡子の甘みがやけに沁みた。
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