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文字数 1,763文字

 その日、通勤途中の電車待ちの時間に読んだネットニュースによると、スウィートマンバのメンバー初のスキャンダルらしかった。マイコ、サキ、ユウナの三人による女性アイドルグループはデビューからもうすぐ四年目を迎えるらしい。昨年にドラマのタイアップで起用された曲は、世間的にも認知度が高い。
 ニュース記事の中に、優菜の会社の名前は挙がっていなかった。満員電車に乗り込む為、いったんスマホをコートのポケットに入れ、会社の最寄り駅まではただひたすら息を詰めるようにして過ごす。密集した人々による熱で、マフラーを巻いた首元に汗がにじむ。毎朝の試練。
 やがて会社の最寄り駅に着き、地上への階段を昇った時、丸まった背中を見つけた優菜は思わず早足でアスファルトを歩いた。ヒールの音が晴れた空の下で高く響く。
「出村君、おはよう」
 横からうかがうように見上げると、玲はびくりと肩を震わせ、優菜の姿を確認してから「おはよう」とぼそりとつぶやいた。
「ねえ、出村君って、スウィートマンバの誰推しなの?」
 様々な情報から言葉を脳内から引き出した結果、口から出てきたものは単刀直入な問いで、当然のように玲は眉根を寄せた。しかし、アイドルオタクである事を自他共に認めているという情報は確かなのか、あっさりと口を開いた。
「ユウナだけど」
「あ、そうなんだ。よかった。朝からサキの報道がすごかったからさ。出村君、よかったね」
 早歩きをしたせいで、電車の中の熱をそのまま引き連れてきているようにマフラーの内側が熱かった。手袋をした手で顔を仰ぐように優菜が言うと、玲はふっと唇を綻ばせた。
「それ、面白い」
 そう言って優菜に見せた横顔は、社員証に移っている仏頂面とも、アイドルオタクと噂されているイメージ像とも、ラーメンを食べながら眼鏡を外している姿とも違う、優菜の初めて見るものだった。
 彼女がいた事がないって本当だろうか。優菜は急に噂を思い出した。あんなに苦手だと思っていた噂というものに、結局、優菜も振り回されている。
「出村君、今日のランチ、一緒に行かない?」
「え?」
「この前のラーメンのお礼」
 怪訝な表情を浮かべる玲に無理やり約束を取り付け、優菜は会社のビルへと入る。警備員に挨拶をしてエレベーターの列を並ぶ。背後には玲がいる。
 二度ほど見送ったエレベーターにようやく乗り込み、三階で降りる時にちらりと振り向いてみたけれど、眼鏡のレンズに光が反射しているせいか、玲の表情はよく見えなかった。

 スウィートマンバを起用したホワイトデー戦略について、結論から言えば続行するとの事だった。そもそもこのスキャンダルについては三日前から会社上層部も把握しており、この話題を利用しようという魂胆に決めたらしい。
「出村って、今頃落ち込んでいたりするのかな」
 隣の席に座る有紗が、すっかりホワイトデー仕様になった自社ホームページを眺めながら、薄く笑った。
 出村君の推しはサキじゃないから大丈夫です。そう言おうとして、優菜は口をつぐんだ。ここでそれを言えば、また玲の陰口大会が始まるのを分かっていた。代わりに、優菜はイントラネットを開きながら、無難な言葉を選ぶ。
「さあ、どうなんでしょう」
「ていうか、絹川さん。今朝、出村と話していなかった? エレベーター並んでいる時」
 キャスター付きのチェアで、有紗が器用に足を組みかえた。ピンク色のタートルネックの上に飾られたパールのネックレスが、規定の明るさを放った蛍光灯を受けて淡く光る。
「あー、話していました。今日ランチに行こうと思って」
「ランチ?」
 今にも立ち上がりそうなほどの勢いで有紗が言い、優菜は肩をすくめた。
「同期の親睦です」
「え、それでランチ? なにそれ、ウケるんだけど」
 有紗の声がざらりと首の後ろ側に触れ、今朝の電車で滲んだ汗が時間差をおいて冷え出した気がした。もうとっくに乾いているはずなのに。
 それは、玲の言う「面白い」とは意味合いの違う、確かな悪意のある言葉で、これまで優菜が受け入れていたものだった。社内での人間関係を円滑にするために。
 正しくないと分かっていながら馴染んできた噂話が、キーボードの音に混じっていく。今までと同じ仮面を張り付けていれば平穏でいられると分かっているのに、有紗の声を上手くかわす事ができない。
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