3-7

文字数 3,275文字

 スマートフォンでのアラームセットを忘れてしまったらしい。メールアプリの通知音で覚醒した透也は、母親からのメッセージを確認し、朝から薄暗い感情に沈みこまれそうになった。重い体をどうにか起こして時計を見る。普段の起床時間よりも十五分ほど遅く、気持ちは焦るのに、身体が上手く動かない。起きる事ができたのがこのメッセージのおかげだと思うと、なおさら気分が淀んでいった。
 母親からのメッセージは、突発的にやって来る。そのほとんどが愚痴で、しかしスルーすると激情する事が分かっているので、会社に向かう途中の電車で返事をしなくてはならない。最善の言葉を考えながら身支度をし、部屋を飛び出て駅に向かう途中、もう一通のメッセージが届いた。返事が遅いという催促のメールかと頬に緊張が走ったが、相手は母親ではなかった。
 【透也君、おはよう】
 優菜からだった。透也はホームで電車を待ちながら、メッセージを読む。
 【突然の話で悪いんだけど、私の母も透也君に会ってお礼をしたいって言っていて。もし透也君がよければ、食事でもどうかな】
 電車がやってくるのと同時に風圧によって地下にも風が生まれる。鼻先に空気の流れを感じながら、透也は困惑していた。
 優菜にも直接言った通り、透也は礼を言われるほどの事をしたとは思っていない。偶然その場に居合わせただけだ。それに、礼ならもう受け取っている。どう返事すべきか迷いながら、透也は電車に乗り込んだ。
 平日の朝の電車内はいつも空気が薄い。肌寒くなってきた外とは違う蒸し暑さを覚えながら、透也はまず母親にメッセージを返した。

 優菜の母親を思い出そうとするけれど、夫の疾患を告げられた当時の彼女はおそらく正常な精神状態ではなかっただろうし、どのような人なのかを想像する事が難しい。しかし、あの穏やかな優菜を見ていると、愛情を持って優菜を育ててきた人だろうという事はうかがえた。
 考えさせてほしい、とだけ返事をした透也は、優菜との関係を考える。三年前に何度か寝ただけの関係で、その親に会うというのは狂気じみていないだろうか。後ろめたくないわけがない。
 世は十一月になり、日中の空気も冬の匂いをまとい始めている。十月の成績を挽回しようにも、担当している営業先の態度は変わらない。営業先のその先には優菜の父親のような患者がいて、彼らを思えばやみくもに医薬品を売り込むのは違うのではないだろうか。これまで抱いていた自分の職業への誇りが、少しずつ綻びていく。
 帰社しても胸の内に溜まったやるせなさは消えず、日報を入力しながら透也は恐怖に襲われた。このまま仕事を終えれば、一人きりの静かな部屋に帰るだけの一日。
 同じ営業部署内には、先日喫煙スペースで話をした同期が社用携帯で電話しているようだった。はつらつとした表情と口調から、相手は営業先である事をうかがえる。
 課長のデスクでは透也の上司である鹿田が黙々とキーボードを叩いていた。穏便そうな顔立ちをしていながらも、優秀だとうたわれている上司の左手薬指には、いつもシルバーリングが嵌められている。
 日報を入力し終えた透也は、タイムカードを切り、挨拶を残して会社を出た。日の入りの早い十一月は、人を感傷的にさせる。そろそろ冬用のコートが必要だ。でも、今はそれよりも。
 透也はスマートフォンを取り出す。誰でもいいわけではない。刹那なものでいい。今一人じゃないならそれでいい。
『もしもし?』
 少々不機嫌そうに聞こえる低い声はデフォルトだ。通話が繋がった事にほっと息をついた透也は、アスファルトを歩きながら軽快な声を出す。
「お疲れ、出村。急だけど、今日飲みに行かねーか?」
 午後八時。情報サービス業の出村は決して暇ではなく、無理な時には無理だと遠慮なく言ってくれるので誘いやすい。でも断られたらどうしよう。三十路を過ぎているというのに、透也は一人である事を思い知らされる夜の過ごし方を知らないままだ。
『あと一時間くらいで仕事が終わるから、その後でもよければ』
 出村の妥協のある返事に胸を撫で下ろしながら、透也は「サンキュ」と軽く答えた。これで、今夜を乗り越えられる。

 約束通りの午後九時、スーツの上に薄手のコートを羽織った玲が待ち合わせの居酒屋に訪れた。いつもの半個室になった安い店だ。今日も平日だというのに繁盛しているようだ。
「出村、お疲れ。今日も突然悪いな」
「いや……」
 玲はいつもの無表情で答え、コートを個室内にあるハンガーにかけて店員に生ビールを頼んだ。すでに透也は一杯を飲み終えている。
「最近は忙しいのか?」
「仕事は特に忙しくないんだけど……」
 何かを含んだような玲の言い方に、透也はジョッキグラスを握っていた手に力を込めた。仕事は、という事は、仕事以外で何かに追われているのだろうか。
 こうして二人で飲むようになって三年近くが経つのに、透也は玲の事をさほど知らない。パソコン相手に仕事をしている事、趣味は邦楽を鑑賞する事、インドア派である事。それ以外の情報を玲は話さないし、透也も促さない。未だに玲の所属する会社名すら知らないままだ。それでも、世間情勢や仕事の話をしていればよかった。今まで透也の周囲にはいないタイプの人間だからかもしれない。
 学生時代の事をあまり思い出せない。それなりに楽しかったと思うけれど、そこにも温度は通わない。
 適度に勉強をして、体育祭や学園祭などのイベントでは適度に活躍して、適度にクラスに溶け込んで、どこにもはみ出さず、誰かを困らせる事もなく、当たり障りのない人間関係を築いて過ごしていた。だから、学生時代の友人というのはほとんど残っていない。
 玲の注文したビールが運ばれ、グラスを軽くぶつけて、ビールを飲み込んだ。すでに炭酸が溜まっている胃に、新鮮な苦みが流れていく。
 いつもと同じように、酒のあてをつまみながら盛り上がるわけでもない会話を交わす。相手の腹の底を探り合うわけではない、ぬるま湯に甘えるような時間だ。
 透也が最近テレビで見たお笑い芸人の話をしていると、ふとテーブルでバイブ音が鳴った。自分のものかと思ったら玲のものだった。ときどき会社からかかってくる事があるという玲はいつもスマートフォンをテーブルに置いているが、実際に透也といる時に着信があったのは初めてだった。
「ちょっとごめん」
 玲は少々慌てた様子で、スマートフォンを持って半個室の仕切りとなっている引き戸の向こうへと消えていった。
 途端に狭い個室に空白が訪れ、少し離れた席から聞こえる会話がよく聞こえてきた。女数人の声がトーン高く響いている。OLか大学生だろうか。彼氏が、彼氏と、彼氏も。共通言語はそれしかないのかと苦笑しそうになるほど、彼氏というワードが何度も飛び交っていて、感心すら覚えてしまう。
 女の会話をBGMにして、頬杖をついた透也はハンガーにかけられた玲のトレンチコートを見上げた。いつからか変わった玲の眼鏡のフレームと同じように、やたらとセンスのいいものだ。少しずつ酔いを覚えながら、ちまちまと生ビールを飲んでいると、玲が戻ってきた。
「仕事の電話か? 大丈夫?」
 備え付けの椅子に座る玲に透也が問いかけると、玲は物言いたげに唇を動かし、「仕事じゃない」とだけ答えた。
 他人のプライベートに踏み込む趣味も性格も持っていない。しかし、どこか落ち着きのない玲の様子に対してふつふつと沸いた疑問が、調子よく言葉に乗って飛び出した。
「仕事じゃねーんなら、何なんだよ」
 笑いながらだったので、そんなに威圧的ではなかったはずだ。しかし、玲はいったんスマホに視線を落とした後、意を決したように顔を上げて、言った。
「式の、段取りの電話だったんだ」
 店内に響き渡っていた自堕落的な声達が、一瞬にして消えた。
「式って、何」
「結婚式」
「誰の」
 ここまで話されて分からないほど馬鹿ではないのに、そうであってほしくないと心が訴える。
「俺の」
 透也の願いも空しく、玲は控えめに、しかしはっきりとした口調でそう答えた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み