3-8
文字数 2,114文字
「おまえ、結婚すんの?」
喉元から押し出したのは、粘度の高い声だった。
ビールの炭酸に含まれた二酸化炭素と一緒に喉元にせり上がって来るものは何なんだろうか。目の前に座る玲は、幸せを象徴する宣言を寄越したわりに、困惑した表情を浮かべている。
高校時代に親しくなかったとはいえ、この三年は二人で飲んで過ごしていたわけで、透也を玲を友人だと思い込んでいた。
玲にとっては違ったのだろうか。
フィルターが剥がれていくように、居酒屋内に充満している雑音が再び鼓膜に触れてきた。それと同時に、強い憤りが全身を駆け巡っていく。
「誰と?」
決して結婚を祝うような声色ではない。おそらく玲もそれに気付いていながら、律義に答える。
「会社の、後輩」
「あー、手ぇ出しちゃったんだ?」
どこかで聞いた、陳腐なラブストーリー。同じ会社、同じ部署内、先輩と後輩。――透也の両親も、そういう出会い方だった。
最も自然でドラマティックで、披露宴で流れるムービーではさぞかし素敵なストーリーを語られるのだろう。刺々しい透也の言葉に、玲は気まずそうにうつむいた。
本当は、玲が半端な気持ちで同僚と付き合っているわけではない事くらい分かっている。そもそも彼らは自分の両親とは違う。それでも、訪れていない未来が目に浮かぶ。男は家庭を放り出し、女は不満を肥大化させるだけの日々。
透也はうつむいた玲を見つめた。最近やけにあか抜けたと思った理由はここにあったわけか、と解答を得る。眼鏡のフレームも、トレンチコートも、そういえば今の玲が身に着けているストライプ柄のシャツも三年前には見なかったものだ。
おめでとー、と間延びした声がどこからか聞こえた。先ほどの隣の個室の女グループが、メンバーの誕生日か何かを祝っているようだ。
玲は我に返り、ジョッキに残っていたビールを流し込み、再び玲を見据えた。
「出村、おめでとう」
我ながら作り物のような声だった。
親しくもない同僚や上司の結婚報告なら、きっとこんな風に揺らいだりはしない。
玲と別れた帰り道、冷え込んだ空気に震えながら透也は自宅に向かった。帰社する時よりもずっと、空虚感がまとわりついた。
結婚なんてやめろよ、と言わなかった自分を褒めたい。そして、そう思ってしまった自分を殴りたい。
社内結婚という事もあり、結婚式や披露宴には親族と、上司や後輩を含めた同僚しか呼ばないと告げられ、「せっかく親しくしてくれているのにごめん」と謝罪をされた。謝る部分はそこじゃねーだろ、とツッコミをいれなかった自分の事も褒めてあげたい。
冬の匂いが立ち込めた夜の空気は、つんと澄んでいて鼻先が痛む。寒い季節になると多くのラブソングがリリースされる意味を、ようやく理解した気がした。身も心も凍えてしまっては、生きていけない。
透也は足早に帰宅し、二つのスイッチを入れる。白い蛍光灯の下で、陽気な深夜バラエティーが流れている。台本のある、しらじらしい笑い声。何もかもが虚ろだ。
ソファーに寝そべり、スマートフォンを取り出す。このままでは今夜を終えられない。
『もしもし?』
このまま自分を駄目にしていく声が、優しく耳元に触れていく。
「優菜ちゃん。この前にくれたメールの件だけど」
本当は断るべきだと分かっている。三年前、優菜が透也をブロックしたように、透也も優菜を都合よく利用していた。優菜の親に合わせる顔などあるはずないのに。
「そちらがよければ、喜んで」
ソファーのクッションの柔らかさと共に、アルコールがまわってふわふわと気持ちがいいのは、スマホを通じて優菜の存在を感じているからだ。
『本当? ありがとう、お母さんも喜ぶわ』
期待していたものと同じ言葉が聴こえ、透也は目を閉じる。
テレビの音と共にまぶたの裏に浮かび上がったのは、幼少時代の光景だった。父と母に手を繋がれて、三人並んで歩いていた。映像が混濁する。見上げた父の顔が玲に見えて、心臓に水が流れ込んだかのように冷えた。
『透也君?』
優菜の声に引っ張られるように、透也はソファーの上で飛び起きる。
「ごめん、ぼーっとしていた」
『それはいいんだけど……。何かあった?』
こんな頼りのないスピーカーひとつで、優菜はいったい何に気付いたというのだろう。彼女の目敏い問いに、透也は一気に覚醒し、ソファーの上で背筋を伸ばした。
玲を友人だと思っていた。例えそれが一方的だったとしても、玲の幸せを喜べなかった。友人だと思っていたのに。
「自己嫌悪に浸ってる」
透也が言うと、優菜がふっと笑った。
『そんなの、私なんて日常茶飯事だよ』
「優菜ちゃんも?」
『うん、きっと誰でもそうだよ』
そうだろうか。
透也は自分について、物事をもっと客観的にとらえられる人間だと思っていた。だから、嫉妬心や劣等感を抱く事も少なく、営業部という競争心を求められる場所でもマイペースにやって来られた。
じゃあ、いま胸に広がるこの感情は何なんだろうか。羨望とも諦観とも違う、やりきれない気持ちは。
『透也君、大丈夫?』
優菜の問いかけに透也はうなずき、適当に挨拶を交わして通話を切った。テレビから聞こえる笑い声が、少しだけ近づいた。
喉元から押し出したのは、粘度の高い声だった。
ビールの炭酸に含まれた二酸化炭素と一緒に喉元にせり上がって来るものは何なんだろうか。目の前に座る玲は、幸せを象徴する宣言を寄越したわりに、困惑した表情を浮かべている。
高校時代に親しくなかったとはいえ、この三年は二人で飲んで過ごしていたわけで、透也を玲を友人だと思い込んでいた。
玲にとっては違ったのだろうか。
フィルターが剥がれていくように、居酒屋内に充満している雑音が再び鼓膜に触れてきた。それと同時に、強い憤りが全身を駆け巡っていく。
「誰と?」
決して結婚を祝うような声色ではない。おそらく玲もそれに気付いていながら、律義に答える。
「会社の、後輩」
「あー、手ぇ出しちゃったんだ?」
どこかで聞いた、陳腐なラブストーリー。同じ会社、同じ部署内、先輩と後輩。――透也の両親も、そういう出会い方だった。
最も自然でドラマティックで、披露宴で流れるムービーではさぞかし素敵なストーリーを語られるのだろう。刺々しい透也の言葉に、玲は気まずそうにうつむいた。
本当は、玲が半端な気持ちで同僚と付き合っているわけではない事くらい分かっている。そもそも彼らは自分の両親とは違う。それでも、訪れていない未来が目に浮かぶ。男は家庭を放り出し、女は不満を肥大化させるだけの日々。
透也はうつむいた玲を見つめた。最近やけにあか抜けたと思った理由はここにあったわけか、と解答を得る。眼鏡のフレームも、トレンチコートも、そういえば今の玲が身に着けているストライプ柄のシャツも三年前には見なかったものだ。
おめでとー、と間延びした声がどこからか聞こえた。先ほどの隣の個室の女グループが、メンバーの誕生日か何かを祝っているようだ。
玲は我に返り、ジョッキに残っていたビールを流し込み、再び玲を見据えた。
「出村、おめでとう」
我ながら作り物のような声だった。
親しくもない同僚や上司の結婚報告なら、きっとこんな風に揺らいだりはしない。
玲と別れた帰り道、冷え込んだ空気に震えながら透也は自宅に向かった。帰社する時よりもずっと、空虚感がまとわりついた。
結婚なんてやめろよ、と言わなかった自分を褒めたい。そして、そう思ってしまった自分を殴りたい。
社内結婚という事もあり、結婚式や披露宴には親族と、上司や後輩を含めた同僚しか呼ばないと告げられ、「せっかく親しくしてくれているのにごめん」と謝罪をされた。謝る部分はそこじゃねーだろ、とツッコミをいれなかった自分の事も褒めてあげたい。
冬の匂いが立ち込めた夜の空気は、つんと澄んでいて鼻先が痛む。寒い季節になると多くのラブソングがリリースされる意味を、ようやく理解した気がした。身も心も凍えてしまっては、生きていけない。
透也は足早に帰宅し、二つのスイッチを入れる。白い蛍光灯の下で、陽気な深夜バラエティーが流れている。台本のある、しらじらしい笑い声。何もかもが虚ろだ。
ソファーに寝そべり、スマートフォンを取り出す。このままでは今夜を終えられない。
『もしもし?』
このまま自分を駄目にしていく声が、優しく耳元に触れていく。
「優菜ちゃん。この前にくれたメールの件だけど」
本当は断るべきだと分かっている。三年前、優菜が透也をブロックしたように、透也も優菜を都合よく利用していた。優菜の親に合わせる顔などあるはずないのに。
「そちらがよければ、喜んで」
ソファーのクッションの柔らかさと共に、アルコールがまわってふわふわと気持ちがいいのは、スマホを通じて優菜の存在を感じているからだ。
『本当? ありがとう、お母さんも喜ぶわ』
期待していたものと同じ言葉が聴こえ、透也は目を閉じる。
テレビの音と共にまぶたの裏に浮かび上がったのは、幼少時代の光景だった。父と母に手を繋がれて、三人並んで歩いていた。映像が混濁する。見上げた父の顔が玲に見えて、心臓に水が流れ込んだかのように冷えた。
『透也君?』
優菜の声に引っ張られるように、透也はソファーの上で飛び起きる。
「ごめん、ぼーっとしていた」
『それはいいんだけど……。何かあった?』
こんな頼りのないスピーカーひとつで、優菜はいったい何に気付いたというのだろう。彼女の目敏い問いに、透也は一気に覚醒し、ソファーの上で背筋を伸ばした。
玲を友人だと思っていた。例えそれが一方的だったとしても、玲の幸せを喜べなかった。友人だと思っていたのに。
「自己嫌悪に浸ってる」
透也が言うと、優菜がふっと笑った。
『そんなの、私なんて日常茶飯事だよ』
「優菜ちゃんも?」
『うん、きっと誰でもそうだよ』
そうだろうか。
透也は自分について、物事をもっと客観的にとらえられる人間だと思っていた。だから、嫉妬心や劣等感を抱く事も少なく、営業部という競争心を求められる場所でもマイペースにやって来られた。
じゃあ、いま胸に広がるこの感情は何なんだろうか。羨望とも諦観とも違う、やりきれない気持ちは。
『透也君、大丈夫?』
優菜の問いかけに透也はうなずき、適当に挨拶を交わして通話を切った。テレビから聞こえる笑い声が、少しだけ近づいた。