2-7

文字数 2,708文字

 絹川優菜という同期をきちんと認識したのは、入社二年目の頃だ。
 仕事の疲労から逃れるように夢中になっていたオーディション番組ではユウナが脱落してしまったが、その後のパフォーマンスが認められてデビューが決まった。その喜びとは反比例するように、玲の体調が著しく悪くなってとうとう病院に受診した結果、胃に不調がある事が判明し、入院と自宅療養を命じられてしまった。
 復帰後もしばらくは体力が戻らず、情報システム部のある四階の廊下を歩いている時、ふとめまいを覚え、壁にもたれかかった時だった。
 ――大丈夫ですか?
 困惑した声が小さく響き、玲は驚いた。聞き慣れない女の声だったからだ。
 首からぶら下がった社員証を見て、玲はまず、ユウナと同じ名前だ、と思った。玲の顔を見ないまま様子をうかがおうとしている彼女の様子に、彼女自身も戸惑っているのだろうと検討がついた。違う部署の男性社員の体調不良に対して、どう対処したらいいのか判断つかなかったのだろう。
 玲はめまいを訴える視界で、その女性社員の様子をぼんやりと観察していた。巻かれたセミロングの髪からふわりといい匂いが漂い、自分とは違う生き物のようだと思った。
 テレビ画面の向こうで生きるユウナとは違う、同僚の一人。
 途端に脳内の端に追いやっていた記憶がざわめき始め、玲は彼女から視線を逸らした。大丈夫、と口元だけ答え、すぐ近くにある情報システム部のドアを開けて中に引っ込んだ。その時の彼女がどんな表情を浮かべていたか知らないまま。
 ふらふらと歩く玲に怪訝な表情を浮かべている真本を無視して、玲はイントラネットを開いて先ほど見た名前を検索した。絹川優菜。繁華街にある百貨店の店舗所属、入社二年目――玲の同期社員だ。玲のような特殊な部署配属以外の社員は、原則として入社後三年間は店舗で販売業務に携わっている。優菜もその一人なのだろう。そういえばその日は支社ビル内で研修が行われていた。
 お洒落に巻かれた茶髪、女性らしさを象徴したブラウスと細身のパンツ姿、そして足元のヒール。当時の優菜は、まさに販売員としてのオーラを放っていた。
 優菜には、透也のような自信に満ち溢れた男が似合う。

 同僚の優菜との出来事を反芻していると、肘をついていたテーブルにわずかな振動が伝わり、玲は顔をあげた。透也が生ジョッキをテーブルに置いた音だった。
「俺はそんな風には全然思わねーけど」
 付き合っている人なんているわけがない、という玲の自嘲めいた言葉に対する透也の言葉は、玲にとって何の慰めにもならなかった。
 教室内で目立たないように息を潜めながら過ごしたり、クラス対抗リレーで足の遅い自分が走る事でクラスメイトを興ざめさせてしまったり、ネイルを塗り合っている女子生徒と目が合うだけで嘲笑されたり、そういった経験を持つはずのない透也に、玲を理解できる訳がない。
 腹の底で肥大化したものを劣等感だと認めてしまい、それらをかき消すようにジョッキの生ビールを胃に流し込むと、たちまち喉の奥が焼けていった。
「森奥君みたいに完璧な人には、分からないよ」
 玲は、行儀悪く片肘ついている透也に視線を向ける。
「俺は陰キャだしぼっちだし、童貞だし、本当はあの日の先生のパーティーでだって誰とも話したくなかった」
 安い居酒屋店内、簡易な薄い壁を隔てた向こうの音や気配がやけにクリアに響いている。
 感情を押し隠した勢いで余計な単語を口走ってしまった気がするが、透也の瞳は変わらない温度で保たれているようだったので、玲も冷静でいられた。テーブルに置かれた空のジョッキの表面を、水滴が引力に従って流れていく。
「次、何飲む?」
 透也の声とともにメニューが差し出され、そこに透也の気遣いが読めて、なおさら悔しかった。玲が真似をしたところで、きっとこんな風にスマートにはできない。
 玲は設置されたタブレットの液晶パネルで二杯目の生ビールを注文した。透也のジョッキには、まだ半分残っている。
「恋愛ってさ」
 玲が注文をし終えたタイミングで、透也がぽつりとつぶやいた。
「向き不向きがあると思うんだよね。何事もそうだけど。数学を得意な人とそうでない人がいるのと同じで、恋愛を不得意とする人もきっといる」
 誰の事を話しているのだろうか、と酔いが回り始めた頭で考えていると、再び扉が開き、先ほどとは違う男の店員が生ジョッキを玲の前に置いていった。ひどくぶっきらぼうな態度に、決して褒められる接客ではないにもかかわらず玲は安堵を覚えた。
「出村は、特別に不得意な人じゃないと思うよ」
 アルコールの生み出す曖昧さのなかに、透也の声が霞んでいく。
 先ほどとは違う感情で、玲は透也の言葉をビールと一緒に飲み込んだ。高校時代、誰もが踏み込めるわけではない階層にいた透也が見せていた表情を思い出す。そして、先ほど駅で出会った時からの違和感が少しずつ形を成していく。
 透也が駅にいた理由。
「森奥君は、どうなの」
 気付けばそんな言葉が滑り出していた。玲のものよりも高級そうに見える首元のネクタイを少しだけ緩めた透也が、自嘲するように笑った。
「俺は不得意みたいだ」
 そんな言葉を透也から聞きたくなかった。しかし、目に見えているものだけが全てではない。高校時代にはクラスの中心にいた透也の心にも、誰にも触れられていない真実はあるのだろうか。
 視線を落として弱々しく表情を浮かべていたのも束の間で、それから透也は話題を変えて、会社での出来事を笑いながら話し始めた。そして持ち前の会話能力で玲の話をうまく引き出し、二人で居酒屋を出たのは終電間近だった。

 四月が近づこうとしているのに、真夜中にはまだコートを手放せない。
「またな」と手を振って途中のターミナル駅で電車を降りていった透也の黒いコート姿を思い出しながら、玲は手元にあるスマートフォンを操作した。透也と過ごしたせいでユウナに触れられる時間が減ってしまったが、なぜかそれを惜しいとは思わない。ただ、乗り遅れた情報がないか少しの焦燥感に誘われるだけだ。
 情報源となっているSNSをスクロールしていく。いつものルーチン。再び駅に到着しようとする電車が、がたんと横揺れし、慌てて吊革に捕まった。
「え……?」
 思わず声を出してしまった事で目の前に座っているOL風の女が怪訝な顔で玲を見たが、気にする余裕もなかった。
 【スウィートマンバのユウナ(二十二歳)、一般男性と熱愛か】
 ライブ中のユウナが映ったピンボケした写真と共に打ち出された見出しに、玲は息を飲みこんだ。電車はブレーキをかけ始め、車内アナウンスが次の停車駅を知らせた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み