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文字数 2,496文字

「森奥君でも、そんな経験があるの?」
 意外そうな物言いをする玲を、透也はアルコールがまわり始めるのを自覚しながら観察する。
 そういえば玲のかけている黒縁眼鏡のフレームが以前と変わっている。彼の雰囲気が変わったように見えたのはこのせいか、と透也は会話の裏側で考える。
「俺は出村と違って、できた人間でも、いい男でもないから」
 玲自身は自己評価が低いようだが、お世辞でも何でもなく透也が思ったままを言葉にすると、玲は何かを言いたそうに透也を見つめ、やがて何かを諦めたようにふっと視線を落としてジョッキを口に付けた。気まずい空気が安っぽいテーブルの上に溜まっていく。
 玲が空になったジョッキをわずかな音と共にテーブルに置いたことで、沈黙が弾けた。
「それで、森奥君はその女の人と、どうしたいって気持ちはあるの?」
 玲にしては珍しく突っ込んだ質問だった。
 半個室となった席のすぐ上にある空調設備からは、季節外れの冷たい風が流れてきて、ビールによって冷えた喉奥が更に冷たくなっていく。
「よく分からねー……」
 行儀悪く片肘をついたまま、透也はうなだれるようにテーブルに顔を伏せた。まだジョッキ一杯しか飲んでいないのに、アルコールがやたらとまわっていくのはきっと疲労のせいだ。肉体的に、もしくは精神的に。
 三年前の冬、優菜と会ったのはたったの三回だったと記憶している。好きだったわけでも、恋人になりたいと思っていたわけでもない。付き合おうという提案をした記憶もあるが、それもその場の雰囲気に流されただけだった。しかし、地続きのように連なっていた時間をぷつりと切断されたような連絡の絶たれ方に、二十七歳だった透也は傷ついていた。

 優菜から連絡があったのは、病院で再会した日から二週間が経った十月下旬の事だった。電話越しの優菜の話によると、ある疾患を診断されていた父親は他の内臓に影響はないものの、手術が必要であると診断されたようだ。
「優菜ちゃん」
 入社してから初めてのボーナスで購入した腕時計は午後七時を示している。スピーカーの向こうにいる優菜の背後からは街の気配が漂い、そしてわずかに聞こえるヒールの音によって優菜が帰宅途中である事を想像しながら、透也は指先にある煙草から放たれた白い煙を見つめた。
「俺の連絡先は、どうやって知ったの」
 営業部のあるフロアの喫煙スペース内では思いのほか透也の声が響いた。他に誰もいなくてよかった。
 ごめんなさい、とスピーカー越しに優菜が弱々しい声で言った。
『有紗さんから教えてもらったの』
 ここで謝罪の言葉があるという事は、優菜が後ろめたい感情を自覚しているという事で、もっと意地悪い言葉で突き放したい気持ちと同情したい気持ちが煙で一杯になった胸元で渦巻いた。辛辣な言葉が脳裏をかすめ、しかし彼女の家族の現状を思い返し、透也は後者に徹するように努める。
「とにかく、親父さんが早く落ち着くといいな」
 多少の憎しみに捕らわれたところで人間性を手放すつもりはないのに、口元から滑り落ちた言葉があまりにも白々しく響いた。
『透也君』
 優菜が言う。
『お礼をさせてほしいの』
 手に持っていた煙草から灰がひとかけら床に落ちた事に気付き、透也は慌てて灰皿の上で火を消した。
 電話を切って営業部署に戻ると、外出していた課長が戻っていた。
「森奥、まだいたのか」
 鹿田(しかた)という名の課長は三十半ばのはずだが、短髪をそのまま無造作にしているせいか、貫禄はなく、よく言えば若く見える。
「お疲れ様です。日報を仕上げて帰宅します」
「そっか、お疲れ」
 鹿田もまだ残っている仕事があるのか、ジャケットを脱ぎながらデスクのパソコンを立ち上げている。残業をしている社員が比較的多い営業部署内は、定時を過ぎていても白い蛍光灯によって不自然なほど明るい。
「森奥」
「はい」
「機嫌がよさそうだけれど、何かいい事でもあったか?」
 人好きのする顔で鹿田に訊ねられ、透也は手に持っていたスマートフォンをゆっくりとデスクの上に置いた。
「いえ……」
 今月の成績からしても機嫌がいいだなんてそんなわけがない。透也は曖昧な笑みを浮かべたまま椅子に座る。
 パソコンに表示された今月の売上金額を見て、胃が重たくなった。MRと略される医薬情報担当者という職種は、営業職の中でも特殊だと言われている。医薬品の流通は主に医師の処方によって成り立っている。価格の取引は行わず、効能効果や安全性などの情報のみで営業をかけていく。
 二十七、八歳くらいまで、透也の仕事人生は順風満帆だった。営業成績の優秀社員として社内で表彰されたのは二十六歳の年で、この仕事は自分の天職だと思っていた。しかし、最近はめっきり不調だ。いつの間にか優秀社員の座は後輩に奪われてしまった。
 世間に溢れるすべての物事に、優劣がつけられると思っている。学校の成績も、会社での評価も、そして、人間が社会のシステム通りに生きられるかどうかについても。
 透也はつい先ほど電話で話した優菜を思い浮かべた。飲み会で出会った女となし崩し的に関係を持った過去は珍しくない。それでも優菜を覚えていたのは、一方的に切られてしまったという未練があるからだろうか。
 キーボードの傍に置かれているスマートフォンが通知を受けて、メッセージが表示された。優菜からだった。
 透也は先の約束を好まない。誰かに会いたくなれば手当たり次第に連絡をし、一人の時間を紛らわせるだけだ。
 お礼をしたいという優菜が提案してきた日は、今週の土曜日の夜だった。煩わしさを覚えた透也は返信をしないまま、パソコンのデスクトップに視線を戻す。
 機械的にキーボードを叩いていても、尖った感情が自分の心臓をちくちくと刺している。
 再びスマホが通知を知らせるためにバイブ音を鳴らした。再び優菜からのメッセージかと思ったが、それは母親からのもので、小さく落胆している自分を否定するように透也は今度こそスマホを手に取り、母親からのメッセージにのみ端的に返信をした。
 パソコンに映った部署内の営業成績を視覚化したグラフは、透也に現実を突きつけ続けている。
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