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文字数 2,606文字

 その翌日の月曜日、出社した途端に有紗に捕まった。
「絹川さん、さっそく森奥君と抜け出していたでしょー」
 森奥って誰だっけ、と一瞬考え、そういえば先日の飲み会で出会った透也である事を優菜は思い出した。たった一日と少し前の出来事なのに、ずいぶんと昔の事のようだ。
 今日もスレンダーな体型を隠さないワンピース姿である有紗の尋問をうまくかわしながらデスクワークや雑用をこなし、気付いたら午後七時をまわっていた。
 営業部から届いた経費伝票の入力がまだ終わりそうにない。優菜はキャスター付きの椅子ごと背伸びをし、ゆっくりと立ち上がった。ずっと座りっぱなしだったせいで、腰や肩が痛む。机の引き出しに常備している食料がなくなっていたので、気分転換がてらコンビニに行こうと、ロッカーから財布とコートを取り出してエレベーターへと向かった。
「あ……」
 開いたエレベーターのドアから見えたのは、同期の出村玲だった。内心しまったと思いながらも、素通りするわけにもいかず、優菜はエレベーターへと乗り込んだ。今日も狭い密室に二人きり、たった数秒の事ととはいえ、苦痛の時間だ。
「お疲れ様です」
 事務的に言い合い、優菜は先日と同じように玲の背中を見つめた。今日もコートを着ていない。
「出村君、今日もまだ帰らないの?」
 決して玲と仲良くしたいわけではないが、同期という関係もあり、この沈黙に耐えられずに優菜が訊ねると、ジャケットを着た背中がわずかに震えた。
「うん。絹川さんも、今日はまだ残るの?」
 玲の問いに優菜がうなずいたのと同時にエレベーターが一階に着いた。警備員に挨拶をしてビルを出る。夜の冷たい風があっという間に鼻先を冷やした。
 ビルを出てすぐ左にコンビニがある。食欲があるわけではないけれど、何かを食べたい。コンビニに向かおうとすると、玲は逆の方向へと歩いていく。
「ねえ、コンビニに行かないの?」
 優菜が声をかけると、振り向いた玲の心外な質問を受けたかのような表情が、明るすぎるオフィス街の外灯に照らされた。
「あ……、俺はラーメン屋に行くんだ」
 風が吹き抜け、玲の野暮ったい前髪が揺れた。ラーメン、という単語のせいなのか、そこに寒さは見えない。
 丸めた背中を向けて歩き出した玲を、優菜は慌てて追いかけた。先ほどまでは食欲などなかったのに、頭の中には鶏がら出汁の効いた熱いスープでいっぱいだ。
「出村君、私も一緒に行っていい?」
 玲の横を陣取るようにして優菜が言うと、玲は眼鏡のレンズの奥で目を見開いたのも束の間、すぐにいつもの物静かな表情に戻り、「いいよ」と答えた。土曜日の夜に出会った透也と同じ、温度の通わない声色だった。


 玲についていく形で入ったラーメン屋は、大通りから裏路地に入った場所にあり、カウンター席しかない小さな店であるにも関わらず繁盛しているようだった。
 古臭い暖簾をくぐるように玲が店に入ると、カウンターの奥で鍋を持った男が、親しげに「いらっしゃい」と白い歯を見せた。優菜の父親よりも少し若いくらいの年齢だろうか、外は凍り付くほど寒いというのに、厨房の暑さのせいか汗だくだ。
「お兄ちゃん、今日は綺麗なお姉ちゃんを連れているね」
 奥から出てきたのは、エプロンを着た五十歳前後に見える女性だった。この店を切り盛りしている男の奥さんだろうか。
 水の入ったグラスを置きながら、彼女は笑う。会話の流れで玲がこの店の常連であることをすぐに理解したが、玲が彼女に応じる事もなく黙々と水を飲むので、優菜は慌てて視線をあげた。
「あ……、出村君の同期なんです」
 自己紹介のように頭をさげた優菜に、彼女は「ごゆっくりね」と微笑んだ。目尻に浮かんだ皺が優しく見えた。
 玲と同じラーメンを注文し、カウンター越しに置かれたものに箸をつけた。温度が喉元を伝っていき、自分の身体が冷えていた事を知る。
 そういえば、男と二人でラーメンを食べに来た事は初めてだ。デートにラーメンはNGだと何かの女性向け雑誌で読んだ事がある。麺をすする音などが男性に受け入れられないのかもしれないが、玲相手だとそういう気遣いが無用で、ひどく安心できた。
 食べている途中、玲が眼鏡を外し、邪魔そうに前髪を掻き上げた。レンズ越しではない一重まぶたの下にある瞳は、思いのほか意思の強さを匂わせている。
 あっという間に一杯のラーメンを食べ終えた玲は、食べるのが遅い優菜に文句を言うわけでもなく、店内の端に設置されたテレビに目を向けていた。ゴールデンタイムのバラエティ番組では、計算の組まれたテロップと笑い声が溢れている。そういえばこの人はアイドル好きなんだったっけ、と麺をすすりながら優菜は思った。再び眼鏡をかけた玲は、夢中になっているアイドルにどのような視線を向けるのだろうか。わずかな好奇心は、玲が席を立ったことで掻き消される。
 玲が会計を終えたタイミングで、「まいど!」と店主の声が響いた。入れ替わり埋まり続けているカウンターの後ろの狭い通路を通り、優菜は「ごちそうさま」と頭を下げて、店の外に出た。暖簾の麻の生地が、温まった額に触れた。
「出村君、お金払うよ。いくらだった?」
「いいよ、このくらい」
 店に入る前と同じ空の下に戻ったのに、先ほどのような寒さは感じなかった。身体が十分に温まっている証拠だ。人間の身体は、とても分かりやすく即物的だ。
 あまり借りを作りたくないのにな、と少々困惑を覚えながらも、たった数百円の事で押し問答するわけにもいかず、「ありがとう」と優菜が言うと、財布をジャケットのポケットに入れた玲は黙ったままうなずいた。今度コーヒーでも奢ればチャラになるだろうか。店内の明るい照明に慣れた目は、例え外灯に照らされようと玲の表情をうかがえなくなっていた。それでも、その猫背の横を歩いていると、まるで昔からこの距離感で過ごしていたような錯覚を受けた。
 玲とはほとんど話した事もなく、当然会話がなくても落ち着くような間柄ではないのに、不思議な感覚だった。
 自社ビルに入る時、玲が慣れた手つきで社員証を取り出した。彼の所属する情報システム部は多忙で有名だ。日頃からこのように残業を繰り返しているのだろう。
 警備員に挨拶をしてエレベーターに乗り込む。会話もそこそこに、優菜は三階で止まったエレベーターを降りた。振り向いた時にはドアが閉まり、玲の顔は見えないままだった。
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