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文字数 2,299文字
約束した土曜日。透也がやって来たのは、駅からほどよい距離の閑静な住宅街にある庭付き二階建ての一軒家だった。
「森奥君、今日はわざわざありがとうね」
ダイニングテーブルには、白い丸皿に焼き菓子やクッキーなどが並べられている。心地のよいカフェインの香りが漂ってきたと思えば、優菜の母親である良美が上品な手つきでテーブルにカップを三つ置いていた。
「さあ、森奥君、お掛けになってね」
「透也君、そんなに緊張しないで」
良美の隣に立つ優菜の表情には、ごめんの三文字が浮かんでいる。
優菜の誘いに応じたのはいいが、まさか自宅に招待されるとは思わなかった。しかし、駅まで迎えに来てくれた優菜に連れられるように入った玄関で透也を出迎えた良美は、病院で見た時とは百八十度違う、明るさをそのまま体現したような人だった。
「すみません。土曜日に、ご家族の団欒をお邪魔してしまって……」
「何言ってるのよ。私達が勝手にお呼びたてしたのよ。あ、森奥君、コーヒー大丈夫だった?」
「はい、好きです」
いただきます、と緊張した声と共に頭をさげると、良美は嬉しそうに微笑んだ。
「優菜がお世話になっているみたいで、ありがとうね」
友人の親の常套句だと分かっていても居心地が悪い。優菜は透也を友達だと話しているのだと、駅から家までの道中で言った。仮にも娘が男を自宅に連れていくのはまずくないだろうか。それを指摘したら、優菜は「大丈夫だよ」と笑った。
――私のお母さんって、そういうの干渉してこないの
そこには少々の罪悪感が滲んでいるように聞こえたのは気のせいだろうか。
上品なカップで飲むコーヒーは、程よい苦みと酸味が効いていて、緊張をゆっくりと解いてくれた。対面型のキッチンでは、良美が透也の持参したバームクーヘンを開けている。その手土産は優菜の父親が退院後にも召し上がれるようにと賞味期限が長いものを選んだつもりだったが、病状にもよるので、敢えて口出しはしないでおく。
「森奥君、製薬会社にお勤めなんですってね」
切ったバームクーヘンを、すでにテーブルに置かれているものとは別の種類のトレイに並べて持ってきた良美が、透也の目の前に座りながら微笑んだ。
そのまま他愛のない会話が繰り広げられ、このリビングの気配と同じ、穏やかな時間が過ぎていった。いつもの私服よりも意識を込めた黒いシャツの襟元が少々苦しいが、不快ではない。
ここが優菜の育った家だった。例え男とホテルに泊まろうと、必ず連絡を入れる家。彼女にとっての帰る場所だ。
初めて優菜と寝た夜、母親にメールをしていた優菜を羨ましいと思った。それまで他人がどのような過ごし方をしていても気にならなかったのに、ナイトウェアを羽織ってスマートフォンを手にしていた優菜の後ろ姿が記憶に焼き付いている。三年前、この家に帰るべき優菜を何度も誘ったのは、居場所を分けて欲しかったのかもしれない。透也には帰りたいと思える場所はなかったから。
ちょっとごめん、と優菜が席を立った。トイレか何かだろうか。
「ねえ、森奥君」
優菜がリビングを出るのを待っていたように、良美が声を潜めて透也に顔を寄せた。
「本当のところ、優菜とはどうなの?」
「え……?」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
良美の顔は期待に満ちている。三十歳の娘を持つ親として年相応の顔つきだが、その明るい雰囲気のせいか、透也の母親よりもずっと瑞々しく見えた。
「病院でお会いした時から気になっていたのよ。うちの娘にこんな格好いい男の子の知り合いがいるなんて知らなかったし、優菜はお友達だって言うし」
良美による「干渉しない」というのは優菜の主観にすぎなかったのだと透也は理解した。愛情を持って育てた一人娘のあれこれを気にしない親がいるはずがない。
「いえ、俺は……」
「大丈夫、お父さんには黙っておくし。むしろ森奥君だったら、私、大賛成だわ」
透也の返事も待たず、良美の頭の中ではすでに優菜と透也の関係性が勝手に描かれているらしい。どうしよう、優菜が戻って来る前にどうにかしなければ。透也が言葉を探していると、
「ちょっと、お母さん」
いつの間に戻ってきたのか、リビングのドアの前で優菜が険しい顔つきで良美を見ていた。
「何、勝手な事を言ってるの……?」
言葉の端々が震えていた。厳しい声色を放つ優菜を見るのは初めてで、透也は優菜と良美の顔を見比べる。優菜に振り向いた良美はさほど驚いていない様子で「ごめんなさい」と笑った。
「だって、あなた、何も教えてくれないから」
「透也君の事は友達だって言ったよね?」
「でも、今までにだって男の子のお話をした事なかったじゃない」
「だって話す事なんて何もないもん」
「好きな男の子の話もしてくれないじゃない」
「そんなの、今までいなかった!」
ドアの前に突っ立ったまま、優菜は良美を睨みつけるように言い放った。さすが母親だと言うべきなのか、良美は動じていないようだ。椅子に座って振り向いた姿勢のまま、優菜に言う。
「好きな子がいないなんて、そんなわけないでしょう」
テレビも付いていないリビングで、良美の声がやけにはっきりと響いた。
リビングの奥側の席にいる透也から見えた優菜の表情の、怒りから失望に変わる瞬間が、スローモーションのように流れていく。
優菜ちゃん、と透也が控えめに呼びかけようとしたのと同時に、優菜が言った。
「そんなわけ、あるんだよ」
先ほどの小さな叫びと正反対に、優菜の声が細く揺れている。
「私には、好きな人がいなかったんだよ。ずっと」
それはきっと、優菜にとって居心地のよい空間に落とした爆弾だった。
「森奥君、今日はわざわざありがとうね」
ダイニングテーブルには、白い丸皿に焼き菓子やクッキーなどが並べられている。心地のよいカフェインの香りが漂ってきたと思えば、優菜の母親である良美が上品な手つきでテーブルにカップを三つ置いていた。
「さあ、森奥君、お掛けになってね」
「透也君、そんなに緊張しないで」
良美の隣に立つ優菜の表情には、ごめんの三文字が浮かんでいる。
優菜の誘いに応じたのはいいが、まさか自宅に招待されるとは思わなかった。しかし、駅まで迎えに来てくれた優菜に連れられるように入った玄関で透也を出迎えた良美は、病院で見た時とは百八十度違う、明るさをそのまま体現したような人だった。
「すみません。土曜日に、ご家族の団欒をお邪魔してしまって……」
「何言ってるのよ。私達が勝手にお呼びたてしたのよ。あ、森奥君、コーヒー大丈夫だった?」
「はい、好きです」
いただきます、と緊張した声と共に頭をさげると、良美は嬉しそうに微笑んだ。
「優菜がお世話になっているみたいで、ありがとうね」
友人の親の常套句だと分かっていても居心地が悪い。優菜は透也を友達だと話しているのだと、駅から家までの道中で言った。仮にも娘が男を自宅に連れていくのはまずくないだろうか。それを指摘したら、優菜は「大丈夫だよ」と笑った。
――私のお母さんって、そういうの干渉してこないの
そこには少々の罪悪感が滲んでいるように聞こえたのは気のせいだろうか。
上品なカップで飲むコーヒーは、程よい苦みと酸味が効いていて、緊張をゆっくりと解いてくれた。対面型のキッチンでは、良美が透也の持参したバームクーヘンを開けている。その手土産は優菜の父親が退院後にも召し上がれるようにと賞味期限が長いものを選んだつもりだったが、病状にもよるので、敢えて口出しはしないでおく。
「森奥君、製薬会社にお勤めなんですってね」
切ったバームクーヘンを、すでにテーブルに置かれているものとは別の種類のトレイに並べて持ってきた良美が、透也の目の前に座りながら微笑んだ。
そのまま他愛のない会話が繰り広げられ、このリビングの気配と同じ、穏やかな時間が過ぎていった。いつもの私服よりも意識を込めた黒いシャツの襟元が少々苦しいが、不快ではない。
ここが優菜の育った家だった。例え男とホテルに泊まろうと、必ず連絡を入れる家。彼女にとっての帰る場所だ。
初めて優菜と寝た夜、母親にメールをしていた優菜を羨ましいと思った。それまで他人がどのような過ごし方をしていても気にならなかったのに、ナイトウェアを羽織ってスマートフォンを手にしていた優菜の後ろ姿が記憶に焼き付いている。三年前、この家に帰るべき優菜を何度も誘ったのは、居場所を分けて欲しかったのかもしれない。透也には帰りたいと思える場所はなかったから。
ちょっとごめん、と優菜が席を立った。トイレか何かだろうか。
「ねえ、森奥君」
優菜がリビングを出るのを待っていたように、良美が声を潜めて透也に顔を寄せた。
「本当のところ、優菜とはどうなの?」
「え……?」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
良美の顔は期待に満ちている。三十歳の娘を持つ親として年相応の顔つきだが、その明るい雰囲気のせいか、透也の母親よりもずっと瑞々しく見えた。
「病院でお会いした時から気になっていたのよ。うちの娘にこんな格好いい男の子の知り合いがいるなんて知らなかったし、優菜はお友達だって言うし」
良美による「干渉しない」というのは優菜の主観にすぎなかったのだと透也は理解した。愛情を持って育てた一人娘のあれこれを気にしない親がいるはずがない。
「いえ、俺は……」
「大丈夫、お父さんには黙っておくし。むしろ森奥君だったら、私、大賛成だわ」
透也の返事も待たず、良美の頭の中ではすでに優菜と透也の関係性が勝手に描かれているらしい。どうしよう、優菜が戻って来る前にどうにかしなければ。透也が言葉を探していると、
「ちょっと、お母さん」
いつの間に戻ってきたのか、リビングのドアの前で優菜が険しい顔つきで良美を見ていた。
「何、勝手な事を言ってるの……?」
言葉の端々が震えていた。厳しい声色を放つ優菜を見るのは初めてで、透也は優菜と良美の顔を見比べる。優菜に振り向いた良美はさほど驚いていない様子で「ごめんなさい」と笑った。
「だって、あなた、何も教えてくれないから」
「透也君の事は友達だって言ったよね?」
「でも、今までにだって男の子のお話をした事なかったじゃない」
「だって話す事なんて何もないもん」
「好きな男の子の話もしてくれないじゃない」
「そんなの、今までいなかった!」
ドアの前に突っ立ったまま、優菜は良美を睨みつけるように言い放った。さすが母親だと言うべきなのか、良美は動じていないようだ。椅子に座って振り向いた姿勢のまま、優菜に言う。
「好きな子がいないなんて、そんなわけないでしょう」
テレビも付いていないリビングで、良美の声がやけにはっきりと響いた。
リビングの奥側の席にいる透也から見えた優菜の表情の、怒りから失望に変わる瞬間が、スローモーションのように流れていく。
優菜ちゃん、と透也が控えめに呼びかけようとしたのと同時に、優菜が言った。
「そんなわけ、あるんだよ」
先ほどの小さな叫びと正反対に、優菜の声が細く揺れている。
「私には、好きな人がいなかったんだよ。ずっと」
それはきっと、優菜にとって居心地のよい空間に落とした爆弾だった。