3-11

文字数 2,236文字

 多感で固定観念が植え付けられやすかった中学高校時代、彼女を作る事が幸せだと思い込んでいた時期があった。
 品行方正に過ごしながら、優秀な成績をおさめながら、活発な友人達と騒ぎながら、その上で彼女がいれば完璧だった。
 初めて彼女と呼べる存在ができたのは中学二年生の時、同じクラスの女子生徒だった。その後も、同じ塾に通う同級生や、一学年下にいた友人の妹、男女グループで遊んで出会った女子高の生徒などと付き合った。みんな可愛くて、優しくて、柔らかくて、いい匂いがして、好きだった。しかし、誰とも長くは続かなかった。
 ――透也と一緒にいると疲れる
 そう言ったのは、大学生の時に付き合った恋人だった。
 大層な理想や目標を掲げていたわけではない。しかし、独りよがりの正しさを縫い続けていく透也の日々に嫌気を見せた彼女達は、次第に離れていった。それを友人はからかい、そして時に透也を責めた。
 ――おまえって結局、誰の事も好きじゃねーじゃん
 容赦のない友人の言葉に、押し隠していたものを暴かれたような居心地の悪さを覚えた。
 付き合った女の子達、みんな好きだった。でも、それだけだった。小説や映画で描かれるような我を失うほどの情熱が、透也の中には生まれなかった。
 それでも、透也は躍起になっていた。道徳の授業で記した人生設計図のように、正しく生きなければ。母に、父に、教師に、近所に、上司に、認められる人生を送らなければ。次こそは。――次こそは。
 そして、その隙間を狙うように、鼓膜にこびりついた母親の言葉が再生される。
 ――結婚なんて、しなければよかった
 それは呪いのように、今でも透也の血肉となって息づいている。

 病院の廊下にある大きな窓から見える中庭では、様々な人が秋の日差しを浴びている。すぐ近くにあるベンチでは老夫婦が微笑み合い、少し離れた場所ではパジャマ姿の子供の乗る車いすが大人に押されている。
 穏やかな景色の下には、透也には見えない様々な感情が隠されているのだろう。
 やがて診察室の扉が開き、スタッフが企業名を呼んだ。透也は慌てて重たい鞄を持ち直し、診察室に入った。午後一時半。つい先ほどまで患者が診察を受ける場所として機能していた室内は、どこか機械的に見えた。
 地域の中核を担う大病院の勤務医は忙しい。名刺を差し出した透也に目もくれず、会社名を聞かれたので答えると、おもむろにため息をこぼされた。
「おたくの薬、どうなってるの」
 身に着けている白衣にいっさいの汚れを許さなさそうな医師が、神経質な表情を透也に見せた。聞けば、透也の担当している医薬品を服用した患者のうち数名が尿路感染の症状を見せたという。
 透也は慌てて鞄から資料を取り出し、医師に提示する。
「ご存じだと思いますが、この作用機序を持つ医薬品は、どうしてもそのような副作用が起こりやすく……」
「分かっているよ、そんな事。でも、同じ系統のものでも、他社のものであればそんな副作用は起こらなかった」
 そんなわけない。頭の奥がつんと痺れ、いくつもの血管が脈打っている。
 まだ承認されて日の浅い作用機序の医薬品は、副作用の報告も市販後調査の件数も少ない。自社と他社のものでそんなに大きな差があるわけがない。
 どうにか弁解を試みようと透也は手に持っていた資料を開くが、医師は認めなかった。そして、「もう出ていけ」の合図。勤務医のスケジュールは分刻みだ。廊下には自分と同じ営業マンが待っている。
 失礼しました、と頭を下げて診察室を出ると、廊下の明るさに目がくらんだ。
 痛み出した後頭部はずきずきと鳴り響き、心臓が冷えた。新しい作用機序のある疾患を治療する新薬として注目を集め、競合をしながらも積極的に売り込んだ医薬品だった。
 嫌な動悸を抱えながら帰社すると、すでに戻っていた同期が顔をあげて、「おかえり」と透也に言った。ライバルでありながらも同志である、会社とは不思議な場所だと思う。
「森奥」
 先ほど副作用の報告を受けた医薬品の他社製品との比較を調べていると、課長である鹿田の声が頭上で響き、透也は振り返った。
「はい」
「今、大丈夫か?」
 鹿田の温和な表情も口調もいつもと同じだ。しかし、胸騒ぎを覚え、頭痛が増した。鹿田の後をついていくと、ワンフロア上にある会議室のドアを開けられた。扉に向かうように並んで座っていたのは、営業部長と、そして。
「お疲れ様です」
 透也の姿を見るなり立ったのは、人事部の男性社員だった。今は十一月、考えた事がないわけではない。それでも、まるで処刑台に案内されるような重々しさで、透也は言われるがまま椅子に座った。すぐ隣に鹿田も座る。
「森奥君」
 普段は滅多に会話を交わす事のない営業部長が、厳しい顔つきで透也を見た。
「君がこの支店に来て、どのくらい経った?」
「四年です」
 考える間もなく、透也は答えた。
 地元に近いこの支店に異動になったのは四年前、透也が二十六歳の時だった。入社後に行われた集合研修後からそれまでの三年半は、北陸地方にある支店に勤務していた。転勤から逃れられない職業だ。
 部長や人事部社員の手元にある用紙は透也の位置からは見えない。しかし、この場が異動宣告されるものである事を、きっと鹿田に呼び出された時から勘付いていた。
 二十六歳で異動をした時は表彰を受けた年でもあり、栄転だと周囲から褒めちぎられた。しかし、今回はどうだろうか。
 人事部の社員が内示を告げた。関西地方の支店だった。
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