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文字数 2,495文字

 約束の金曜日、定時と同時に有紗が優菜の肩を叩いた。
「絹川さん、お疲れー」
 その言葉には「早く仕事を終わらせてよ」という意味が含まれている。有紗が羽織っている毛並みの綺麗な白いロングコートは「今年に入ってから買ったブランドの新作なの」と自慢していたものだ。彼女によく似合っている。
「有紗さん、彼氏がいるのに男子のいる飲み会に行っても大丈夫なんですか」
 デスクに置かれたパソコンの電源を落とし、ロッカーで荷物とコートを取ってきた優菜は、有紗の横を並んで歩きながらも最後の悪あがきだと喉の奥で自嘲する。
「えー、全然平気」
 定時直後のエレベーターは混み合っている。三階に降りてきたエレベーターに乗り込み、優菜はゆっくりと息を吐いた。数日前に出村玲と乗り合わせた空間を思い出した。彼は今日も残業をしているのだろうか。
「そういえば、有紗さんの彼氏さんって、飲み会で出会った人でしたっけ?」
「あ、それは前の彼氏ね。今の人は、バーで居合わせた人」
 エレベーターを降りてから会話の繋ぎとして引き出した話題で、失言だったかと一瞬ひやっとしたが、有紗があっけらかんと答えるので、気にするほどの事でもないかと優菜は姿勢を正す。警備員に挨拶をして外に出る。午後六時過ぎ。空はすでに暗い。
 有紗が飲み会で知り合ったという「前の彼氏」と付き合い始めた時、社内ではちょっとした話題になった。一年ほど前の事だ。のちに恋人となったその男は、飲み会で出会った有紗に一目惚れをし、会社ビルのエントランス前で有紗に猛アプローチしたという。目撃した社員が何人もいた事により、その出来事はあっという間に会社じゅうに知れ渡る事になった。
 一歩間違えばストーカーだが、それをドラマティックに仕上げた恋を、すでに有紗が手放していたなんて。優菜は肩にかけたトートバッグの紐をぎゅっと握った。いつもよりも高いヒールを履いたつま先が冷えていく。
 横を歩く有紗からは甘い匂いが漂う。彼女は、まさにモテる女だった。彼氏が途切れているのを、少なくとも優菜は見た事がない。
「絹川さんはー?」
 会話の続きのように、有紗が言う。
「絹川さんは、彼氏いないのー?」
 汚染物質まみれの都会の空気が、優菜の前髪を揺らした。
「いたら飲み会には参加しないですよ」
「あはは、そりゃそうか」
 彼氏がいても男性もいる飲み会に参加するという有紗は、軽やかに笑った。器用に巻かれた髪の毛が白いロングコートの上でふわりと揺れている。有紗とは正反対の発言をする優菜に対して、有紗は否定をしない。だから、優菜は有紗と一緒にいるのかもしれない。そこに女子特有の空気がまとわりついていても、彼女を嫌いにはなれなかった。
 約束の居酒屋につくと、男性陣は先にそろっているようだった。有紗の大学時代の友人だという女性二人はまだ到着していないようだ。
 四人対四人。優菜は喉元を引き締めながらコートを脱いだ。通路側に座っている男が「ハンガーにかけておくよ」とにこやかに笑う。その視線すら値定めのもののように思えた優菜は、礼を言いながらコートを渡した。有紗のものよりも桁がひとつ少ないであろうコートを渡しながら、急に不安が押し寄せる。このコートはおかしくないだろうか、このメイクは、この髪型は、この服装は。
「優菜ちゃんって、有紗さんの後輩なんだってね」
 やがて全員が集まってドリンクが目の前に置かれ、左隣に座る男に話しかけられた時にようやく安堵を覚えた。異性から話しかけられるという事で、自分がこの場に相応しい人間だと烙印を押された気持ちになる。優菜は甘いカクテルの入ったグラスを指先で触れながら、うなずいた。
「そうなんです」
「洋菓子メーカーだっけ? どんな仕事をしてるの?」
 最初の自己紹介で、男は森奥(もりおく)透也(とうや)と名乗っていた。どこか他人行儀な彼の言葉に、興味や好奇心といった感情が含まれていない事に気付きながらも、優菜は正直に答える。
「今は支社勤務で、雑用です。昔は店舗に配属されていたんですけれど」
「へえ、そうなんだ。もともと支社勤務希望だった?」
「はい。でも最初の三年間は現場での勤務という決まりがあって」
「あー、そういう会社って多いよね」
 たいした意味を成さない会話には温度が通っていない事を分かっているのに、心地よさを感じてしまうのは透也の話し方が上手いからだろうか。製薬メーカー勤めだと話していた透也が、白衣を着てフラスコ相手に仕事しているとは思えない。
「森奥さんは、営業職ですか?」
 うつむきがちになっていた顔を透也に向けると、整った顔立ちがふっと笑い、「透也でいいよ」と言った。これまでの人生で挫折を知らなさそうな表情が、優菜の問いに対して肯定を示していた。
 まるで世の理想をあらわした人みたいだと優菜は思う。透也がジョッキを持ったタイミングで、優菜もグラスを手に持ってカクテルに口を付けた。甘さが喉元を伝って胃に落ちていく。わずかなアルコールが、心臓を高鳴らせる。
 一枚の仕切りを隔てた向こうの席から、他人の笑い声が響いた。優菜の斜め前の席の男が、場を盛り上げようと声を張ってしゃべっている。その隣に座っている有紗は愛想笑いを浮かべながらも、膝の上でスマートフォンを触っているようだ。混沌とした金曜日の居酒屋の店内。油とアルコールの混じった匂いを甘いカクテルで飲み込んでいると、テーブルにあった左手に何かがくすぐったく触れた。
「あ、ごめん」
 安い居酒屋の狭い席。透也の肘が当たったようだった。
 再び透也が優菜に話しかけきて、話をしていくうちにどうやら彼が優菜と同い年であるらしい事を知った。心地のよい会話を交わしながら、ほろ酔いした脳内がいくつかの道筋を立てていく。
「透也君」
 痺れた脳が、理想の自分を作り出していく。
「この後、時間ある?」
 世の中に溢れるラブソング、恋愛映画で見た恋人達、さまざまな光景に心を投じていく。
 仕事終わりの金曜日、疲れていないわけがないのに、アルコールによって増長した高揚感が駆け巡った。今度こそは、という期待を込めて訊ねると、透也は口元だけでふっと笑った。
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