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文字数 2,483文字

 ライブ会場である大ホールでピンク色の海が波を打つ。テレビの画面越しでも、その熱気が浸透するように伝わってくる。
 マイコが洗練された笑顔で客席を盛り上げる。サキが激しいダンスを魅せる。そして、ユウナが鮮やかな歌声を客席に響き渡せていく。
 スウィートマンバはライブがいいとファンの間でも定評だ。デジタル化された音源に収まらない彼女達の魅力が、会場にいる観客と一体化してひとつの世界を作っている。
 みんなありがとう、と煌びやかな衣装を身にまとった三人が観客に手を振っている。アリーナ席から挙がる歓声も、二階や三階席から揺れるペンライトも、スウィートマンバの魅力を増長させていく。ファンの力は、アイドルの力だ。
 この場に行けたらどんなに幸せだろうと玲は思う。しかし、近づいてしまったらもう戻って来られないかもしれない。手を伸ばせるという秘めた可能性は恐怖だ。手の届かない画面越しだからこそ、人は夢を見ていられる。夢は夢のままでいい。
 二月末に発売されたライブDVDの再生が終わり、玲はのっそりと重たい腰をあげた。水曜日の午前一時。明日も会社なのに、リモコンを持つ手が次を探し求めている。
 三月の番組改編期にはスペシャル番組も多く、スウィートマンバのテレビ出演が細々とあった。録画されているバラエティ番組を選び、倍速で再生させていく。そしてユウナが映ったところだけをトリミングしていく。
 熱気に溢れる現場に行けないからこそ、玲にとって映像は貴重で、保存しておかなければならなかった。トリミング、トリミング、トリミング。コンマ一秒を調整して、ユウナの姿だけをハードディスクに残していく。
 録画したこれらを日頃から再生しているのかといえば、そうではない。クオリティーの高いライブ映像やミュージックビデオに比べれば、テレビの画面は粗さが目立ち、なおかつユウナはトークが上手いわけではないので録り高も少なければ完成度も低い。それでも、一秒たりとも見逃してはいけないという使命感が玲にはあった。
 バラエティ番組に出演しているユウナが笑っている。白いワンピースは、ステージ上にいる時のものよりも控えめに揺れていて、彼女の純真さをより引き立てていた。そして、MCを務めている芸人が、マイコの隣に立っているサキを弄り倒し始めた。サキの熱愛報道をネタにする事で昇華させていく商法。分かっていながら、胸元で動揺が渦巻いた。
 ――出村君、よかったね
 掻き消していたはずの記憶が色を持ってよみがえり、玲は思わず操作していたリモコンをカーペットに落とした。画面からはユウナが消え、別のタレントが話し始めている。早くカットをしなければならないのに、震える手が言う事を聞かない。
 出村君、よかったね。サキの熱愛報道が出た日の朝、そう笑った彼女はきっと心から自分を心配していた。その日に誘われたカフェは玲にとって馴染みのないお洒落な場所で、気後れをしてしまったせいか何を話したのか覚えていない。
 玲は生唾を飲み込み、リモコンをテレビに向けた。ぷつりと音を立ててひとつの世界が幕を閉じる。午前一時の八畳ワンルーム。窓のすぐ向こうに佇む幹線道路から響くトラックのエンジン音が、静寂な部屋を夢の隙間へと落としていく。

 脳内を仕事とユウナだけで隙間なく埋め尽くしてしまいたい。
 気付けばホワイトデーも終わり、イントラネットのトップ画面からはスウィートマンバの姿が消えていた。
「先輩、今日はもう帰りましょう」
 定時から五時間遅い午後十一時、真本が厳しい声でそう言った。
「なんで?」
「そんなの分からないはずねーですよ。四年前みたいになったらダメです」
 四年前。玲がユウナに出会った頃。舞い込む仕事量が過酷で、玲は体調を崩した。他にも心身の不調を訴えた社員は多く、当時の部長は異動、その後部署内のマニュアルが見直された。その出来事のおかげで、玲は今もこの会社にいられる。
 仕事を好きだ。会社も好きだ。スーツを着てネクタイを締めて出勤をしていれば、自分をまっとうな人間のように思える。たとえアイドルオタクでも、恋愛経験が皆無でも、会社員というだけで信頼を得て過ごしていける。
 何かを取り繕うように玲がパソコンを操作し続けていると、キーボードを乗っ取るように横から真本が手を出してきて、しまいには電源を切られた。さすがにそれに対して異議を唱えたが、気付けば部署内には真本と自分以外の人間はいなかった。
 追い出されるように廊下に出た玲は、部署の出入口を施錠している真本をぼんやりと眺める。節電のためか薄暗い廊下の向こうにあるエレベーター。こんな時間に別の部署の人間と出くわす事もなく、真本と二人で乗り込んだエレベーターはそのまま一階へと降りていく。
 警備室に鍵を返却してから外に出た。冷たい風が頬に触れたが、真冬の匂いとは違う事に気付く。季節は移り変わっていくというのに、玲の脳内では今でもちらつく一か月前の残像が思考を途切れさせようとする。
「出村先輩、最近スウィンバはどうですか」
 地下鉄の駅に向かいながら、真本が訊ねた。
「別に、相変わらず。今のところ新曲の予定もないし、ライブはあるみたいだけど俺には関係ないし」
 答えながら、今日のユウナの情報について考える。真本と別れたらさっそくスマートフォンで情報をチェックしなければ。仕事を終えた今、ユウナの事で満たしていないと、それ以外の感情に溺れてしまった時の対処法を玲は知らない。
 午後十一時を過ぎていても、オフィス街にある駅構内にはスーツを着た会社員がちらほらと帰路を急いでいる。同じ路線の逆方向に向かう真本と一緒に改札を抜けようとした時、ふと視線を感じて思わず目を向けた。
「先輩?」
 先を歩いていた真本が足を止めて振り返ったが、その声に気にかける余裕もなかった。その姿を認識した途端、胸の奥が崩れるように音を立てていく。
「……森奥、くん」
 玲が呆然とつぶやくと、そこに立っていた透也は安堵をこぼしたように笑った。会社員の象徴であるスーツが、腹立たしいほどよく似合っていた。
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