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文字数 2,153文字

 高校時代の恩師の退任パーティーで森奥透也と再会してから、一か月が経っていた。
 会場のみなさーん! というユウナの声によって、ベッドに寄りかかるように座っていた玲ははっと我に返った。折り目のついてしまったポスターは、クローゼットの前に置かれたままだ。
 つい数時間前に手に入れたライブDVDの再生時間が、いつの間にか一時間を超えている。一年ほど前に行われたライブが収録されたディスクの曲目を確認すると、玲のいちばん好きな曲すら終わっていた。それは、ユウナの歌声が特に伸びやかに響く、ミディアムバラードだった。
 デッキを操作する気力もなく、スーツ姿のままの玲はゆっくりと立ち上がり、ベッドに倒れ込んだ。しばらく同じ姿勢でいたせいで腰が痛い。
 望んでいたユウナがテレビ画面に映っているのに、瞼の裏からは交差点での優菜と透也の姿が剝がれない。
 同期である絹川優菜とは特に親しいわけではない。そして、優菜はユウナとは全くと言っていいほど似ていない。愛嬌を浮かべながらもどこか壊れてしまいそうな危うさを持つユウナに対して、優菜は簡単に人を惹きつけないクールな印象を纏って社内を高いヒールで歩いていた。
 ひょんなきっかけから二人でラーメンを食べに行き、その後おしゃれなカフェでランチをおごってもらった。ただそれだけの関係だ。それでも、優菜は他の社員とはどこか違い、それを面白いと思った。
 社内において自分がどのような目で見られているか、玲は自覚しているつもりだ。そんななかで優菜は異質だった。
 玲の最も苦手とする女の集団に溶け込んでいながら、優菜は玲とも普通に会話をする。他の女性社員のように気持ち悪がったりせせら笑ったりするような事もなく、だからと言って媚びを売るわけでもない。ただの同期という距離感を持って、彼女はただ玲と話をする。それがどれだけ玲にとって特別な出来事だったか、きっと優菜は知らない。
 ラーメン屋で食事をした時も、スウィートマンバのサキの熱愛が報道された時も、屈託なく笑ってくれたのに。
「……裏切り者」
 枕に顔を押し付けながらつぶやいた自分自身の声が狭い八畳の空間に浮かび、玲は唖然とした。まるで自分の声じゃないようで、激しく自己嫌悪に陥っていく。
 四十八型のテレビ画面では、三人がダンスポップ調のメロディーに合わせて激しいダンスを魅せている。ライブの終盤だ。

 三月になり、仕事はますます忙しくなった。四月に入社する新入社員の情報を社員番号と紐づけしたり、四月から変更される発注システムのデータを管理したり、仕事が忙しくなればなるほど都合がよかった。
「出村先輩、最近仕事を抱えすぎじゃないですか?」
 同じ情報システム部に所属する後輩の真本(まもと)が、隣の席から珍しく同情じみた視線を向けてくる。午後九時半。今日も絶賛残業中だ。
「昔に比べたら、ましだろう」
 ブルーライトによる疲れ目をこすった玲は、デスクに飾っているユウナのアクリルコースターをじっと眺めた。このユウナの着ている黒いワンピースは、3rdシングルのミュージックビデオで使われた衣装のひとつだ。
 四年前、玲が社会人二年目だった頃、尋常じゃない仕事量が舞い込んできた事があった。当時の優柔不断な上司は上層部や他部署からの仕事を断る事なく、それらは全て玲や真本に降りかかった。その上司は、上には媚びへつらいながらも、部下である玲達に対しては横暴だった。会社で寝泊まりする事も珍しくなく、日付の変わらないうちに帰れば早い方で、労基法など機能していない日々を過ごしているうちに、心身は正直に疲弊の色を濃くしていった。
 食欲が出ず、体重が落ちた。ある日、終電で帰宅した玲はフローリングの床に座り込んだまま、リモコンをテレビに向けた。リモコンを持つ手首が震え、テレビの電源を入れたのが何日ぶりなのかすら思い出せなかった。
 画面に映し出されたのは、アイドルを発掘するオーディション番組だった。そこで歌っていた少女の姿が、疲弊して無感情になっていた玲の心に優しく浸透していった。それがユウナだった。
「でも先輩、最近あんまり元気なさそうだし、何かあったんじゃないですか」
 何か。真本の言葉をそのまま反芻し、玲は薄く笑う事しかできない。
 パソコンが並んでいる情報システム部署内の乾燥した空気によって、喉元がひりひりと痛んだ。出村は机の上に置いてあるペットボトルのミネラルウォーターを口に含む。
 好奇心やくだらない噂で溢れた社内で、優菜は自分の救いだと思っていた。でも違う。やっぱり自分を救ってくれるのはユウナだけだ。アイドルの、スウィートマンバのメンバーの、ユウナだけだ。
 玲は画面を見つめる。中央にふわりとしたスカートを履いたマイコ、左にはパンツスタイルのサキ、そしてユウナはタイトなワンピースを着て右側に立っている。いつもの立ち位置、四年前のオーディション番組での選ばれしスター。
 机に置いたままのスマートフォンが震え、玲は手に取った。今日はファンクラブ限定の公式動画が更新される日だった。詰め込んだ仕事を終えて、早く動画をチェックしなければ。早く生活の全てをユウナだけに染めていかなければ。
 暖房による乾いた温風にさらされながら、玲はキーボードを叩き続けていく。
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