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文字数 2,624文字

 セックスの相手はいつも飲み会で出会う男ばかりだった。
 初体験もそうだった。少女漫画や映画のようにドラマティックにはならない。最初は空回りしていた飲み会の席でも、いつの間にか参加している女の一人として振舞えるようになっていた二十一歳の時、隣の席にいた中性的な顔立ちをした男にホテルに誘われ、優菜は内心舞い上がった。
 その男を好きだったわけではない。男に選ばれた事実に、ようやくこの世界に溶け込めると思った。
「優菜ちゃん、大丈夫?」
 物思いに耽っていると、透也が優菜の顔を覗き込んだ。優菜は我に返り、全身に駆けていく快感を拾っていきながら、大丈夫、と透也の体重を受け止める。
 こうして透也に会うのはまだ三回目だというのに、すでにどこかで冷静に行為に及んでいる自分自身に、優菜は落胆していた。
 いつもそうだ。恋する女の子達のように身体を重ねることでの喜びを、優菜は知らないままだ。それどころか、同じ男との回数を重ねるたびに飽きが生じてくる。快感が巡っていくほど意識が輪郭を取り戻し、この現状に疑問を(いだ)く事によって、男に抱かれながらも恋をできない自分自身を認めてしまう。
 中学生の頃、流行っていた少女漫画の主人公のように高校生になれば自然に彼氏ができると思い込んでいた。しかし、高校生になっても、彼氏どころか好きな人すらできなかった。大学生になっても相変わらずで、参加した飲み会での出会いはあっても、その関係を長く続ける事すらままならない。
 アルコールの酔いによって生まれた淡い期待は、いつも優菜を簡単に裏切り、残るのは恋愛感情の伴わないセックスだけだった。それでも、その行為は自分という人間を社会のどこかにカテゴライズしていく作業のようで、優菜に一種の安心をもたらした。
 一通りの行為を終えた後、優菜は布団を被ったまま、冷蔵庫の前でミネラルウォーターを飲む透也を眺めていた。
「透也君」
 エアコンがこうこうと音を鳴らして部屋を暖め続けている。もうすぐ三月になるというのに、春の訪れはまだ遠い。そもそも、窓のないラブホテル内にいれば季節感などないに等しいのだけれど。
「前に訊いていたよね。有紗さんと仲がいいのかって」
 ペットボトルをカウンターに置いた透也が、眉をひそめた。
「どうしたの、急に」
 出会った時から変わらない、さして興味のなさそうな透也の声に、この温度のない感じが気に入っていたのだと優菜は思う。
「有紗さんと、仲は悪くないと思う。でも……」
 毎日の三階のトイレでの井戸端会議や、悪意をもった社員の噂話。それらに疲れてしまう時がある。充満した悪意に、いつか自分が押しつぶされそうになる。
 有紗がもっと嫌な人だったらよかった。グリム童話に出てくる継母のように、人を人とも思わないくらい冷徹な人だったら、きっと一緒にランチにも行かない。
 しかし、有紗は優菜に仕事を教えてくれた。女子の世界に馴染めない優菜を引き込んでくれた。入社以降にもずっと彼氏のいない優菜を馬鹿にする事もなく、でもきっと気にかけてくれている。陰では何を言われているかは分からないけれど、彼女と過ごす時間は確かに優菜を救ってくれた。
 優菜の話を黙って聴いていた透也は、ベッド横にあるソファーに座り、煙草をくわえた。
「そっか」
 何度かキスをした唇から吐き出された煙が、間接照明によって白く浮き出されていく。
「それでいいんじゃねーの」
 どこまでも他人事なその言葉に、優菜は感情の持って行き場所を考える。透也を格好いいと思うし、一緒にいて安心する事もある。何よりも彼は優菜を好きではない。それでも、だからこそ、ずっと一緒にはいられない。
 透也から視線を逸らして、優菜は薄く映った天井の模様を眺めていく。ここに来る前に見たネットニュースを思い出す。スウィートマンバのサキが、公で熱愛を認めたという。強気な瞳を持つショートヘアの女の子のはにかんでいる姿が記事になっていた。
 サキの事など何も知らないのに、優菜は疎外感を覚えていた。この世界からはじき出されたような感覚に襲われ、透也との待ち合わせ場所に急ぎ足で向かった。
 結局、誘われるままこうして彼に会っているのは、二十一歳の頃から続いている作業の一環だった。
 煙草を吸い終えた透也が脱ぎ捨てられていた衣服を身に着けているのを見て、今日は宿泊ではなかったのだと優菜は思い出し、慌てて起き上がった。時計は午後八時半を示している。定時で上がってからすぐに透也とホテルに入ったので、夜更けにはまだ遠い。
「明日、出張なんだっけ?」
「うん」
 身支度を整えてホテルを出ると、つんとした冷たい空気が鼻先に触れた。型にはめた何かから解放された気分を味わう。真っ暗な空の下にあるネオンの明かりが、疲れた目に沁みた。
 明日の早朝から出かける仕事について話す透也の声を聞きながら、もう会うのは最後にしようと優菜は思った。透也と出会った時の高揚感は、もうとっくに萎(しぼ)んでいる。透也と共に過ごす時間は、自分を守る鎧を厚くするだけのものだった。
 優菜を囲っているものと似た自堕落な空気を醸し出す透也を、好きになれたらよかったのに。
 寒い寒い、と声を震わせた透也が優菜の手を掴んだ。彼の言葉とは裏腹な体温が手のひらにじんわりと滲む。絞り出した甘い感情が、温度と共に喉元にこみ上げた。仕事帰りの人々で溢れた歩道、今だけは恋人のように見えたらいいと思う。壮大なストーリーでなくていい、ただの陳腐な恋愛ドラマのヒロインに、一度でもなってみたかった。
「じゃあね、優菜ちゃん」
 繁華街の駅の改札口で、透也が優菜の手を離した。人々の声が反響している天井の低い駅構内、体温への名残惜しさと共に、これでやっと一人になれるという安堵感に包まれていく。結局、優菜は誰と過ごす事も叶わない。
 スーツの上に黒いコートを着た透也の後ろ姿が改札の向こうに消えたのを確認し、優菜は鞄からスマートフォンを取り出した。もう会わない。何にも染まれない自分を肯定してくれた声だけを抱きしめたい。優菜は冷えた指先でスマホの液晶画面をタップし、透也の連絡先をブロックした。
 透也と鉢合わせしないように電車数本分の時間差を置いて昇ったホームでは、スーツを着た男女が肩を寄せ合っていた。自分の人生には訪れない光景。優菜はマフラーに顔をうずめて、男女の横を通り過ぎていく。ヒールを履いた足元は、今日も温度が通わない。
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