3-12

文字数 1,899文字

 二十六歳で会社に表彰をされた時、多くの社員に激励をされ、満ち足りた気持ちと共にその先にある空虚感に焦った。自分はこの先どこに向かうのだろうか。その後、現在の支店に異動してからも、吐露できなかったそれらは広がり、身体の中をうごめくように圧迫していった。
 仕事は楽しい。やりがいがある。でも、評価や功績を得れば得るほど、様々なものが擦り減っていった。もともと皆無に等しかったプライベートさえも投げ捨てて、感情ごと平坦にしていきながら仕事に没頭して、その先に見えるものは?
 ――森奥君、いい人はいないの
 気の張った酒の席で、営業相手でもある医師が言う。
 ――僕はまだ未熟者なので
 当たり障りのない上っ面の会話で誤魔化そうとすると、医師に叱られた。
 ――森奥君も二十六なんだから、考えた方がいいよ。あっという間に三十になって、ジジイになるよ
 スゴロクのように連なっていく人生イベント。そして会社内における立ち位置。それを意識した瞬間、足元が揺らいだ。
 周囲は言う。結婚をしたい、子供が欲しい、出世したい、起業したい――。透也にとって、何ひとつ興味の持てる話ではなかった。
 仕事は楽しい。やりがいがある。しかし、ただそれだけだ。
 子供の頃から同じリズムを刻むように、一歩ずつ正しさを積み重ねただけの日々は、価値のないものになり下がった。

 壮大な海の波に乗るように、夢と現実の狭間を泳いでいれば、足元が揺らいでいてもおかしくない。
 溶け込んだ意識を筆でなぞるように、濁音を具現化したような音が鳴る。ソファーのクッションの感触と、深夜番組のテレビの音。透也はゆっくりと目を開けた。吐き気と頭痛がひどい。二日酔いだと気付くまで、そう時間はかからなかった。
 テレビ画面の左上に映っているデジタル時計を見ると、午前三時が過ぎていた。自分の身体のいたるところにアルコールが染み込んでいる気がして、シャワーを浴びなければと透也は這い上がるように起き上がった。
 つい数時間前の事が曖昧だ。
 異動宣告を受けたからといって仕事量が減るわけではない。部署に戻った透也はいつものように業務をこなし、会社を出た午後八時、オフィス街の光によって浮かんだ影に吸い込まれていくような不安を覚えた。
 帰宅する会社員の波に乗りながら、スマートフォンのアドレス帳から呼び出したのは、就活時代に知り合った他社の同業者だった。数か月ぶりに会う彼とダイニングバーで飲み、久しぶりに悪酔いをしてしまった。同業者は、よくも悪くも酒に強い人ばかりだ。
 シャワーを浴び終え、テーブルに置いてあったスマホはもうすぐ午前四時を示そうとしている。乾ききっていない頭をがりがり掻きながら、透也は寝室のベッドに潜り込んだ。霧がかっていた記憶が、少しずつ形を取り戻す。
 ――俺、転職するわ
 一緒に飲んだ同業者は、豪快にハイボールを飲みながら、そう言った。
 他社とはいえ、この業界を目指していた同志のように思っていた彼の突然の告白に、透也が理由を訊ねると、彼は言った。
 ――俺ら、もう三十じゃん。この仕事も悪くないけれど、今付き合っている彼女とのこれからを考えると、キッツイわ
 やたらと座高のあるバーチェアが軋みをたて、店内を流れるボサノバ調のBGMがやけに耳に触れた。
 透也の中に根付いた理想が、周囲で築き始められている。三年前に参加した高校時代の恩師の退任パーティーで再会した元クラスメイトのうちの数人は、すでに家庭を作り、子供を持っていた。二十七歳にもなれば珍しい話ではなかったのに、透也はそれをどこか遠い話のように思っていた。
 大学を卒業して、安定した企業に入って、優しい女性と結婚して、子供を授かり、マイホームを建てて、穏やかに過ごす。絵に描いたような人生。
 しかし、現実は厳しい。
 変な時間に眠ってしまったせいで、頭がやけにクリアだ。眠りに落ちていく瞬間は訪れず、眠れない時間は苦手だ。冴えた脳内に、言語化できない多くの情報が一緒くたに流れてくる。
 出村は元気だろうか、とふと玲の姿を思い出した。最後に会った日から三週間近くが経っていた。彼もまた、透也を置いて駒を進んでいく。素直に祝えなかったのは、焦燥感に襲われたからだけではない。自分の中に残っている子供じみた独占欲が、きりきりと唸る。
 同業者や同僚と飲みに行くのも楽しい。人生経験の豊富な人々の話は、身になる事も多く、刺激的だ。だけど、無理やり会話を引き起こさなくてもいい空間の貴重さを、大人になればなるほど思い知らされる。
 夜明けの遅い十一月、カーテンの向こうではひんやりとした早朝の気配が揺れている。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み