3-15

文字数 2,045文字

 薄らいでいく夢の意識に現実が戻り始める瞬間を、時々恐怖にも思う。しかし、今日はクッションや枕の感触がいつもと違う事に気付き、透也はゆっくりと目を開けた。遮光カーテンの隙間からの日差しが柔らかい。自分がソファーの上で寝ている現状により、ああそうか、と昨夜の事を思い出す。
 優菜は寝室にある透也のベッドで眠っている。
 昨夜のアニメ映画が終わった頃、優菜はしぶしぶと母に電話をした。友達の家に泊まる、という常套句に笑いそうになったが、あながち嘘ではないのかもしれない。友人の定義は広く、不安定だ。三年前ならともかく、あらゆるものを明け渡し合った今となっては、そういう関係性もきっと悪くない。
 順番にシャワーを浴びて、優菜にはスウェットを貸した。ベッドの譲り合い合戦が始まり、とうとう優菜が折れた。一緒に眠る事はできなかった。
 透也は毛布をかぶったまま、エアコンのリモコンに手を伸ばす。いつの間にか布団から出るのも億劫な季節になっていた。壁時計は朝の七時前をさしている。
 部屋が暖かくなり始めた頃、透也は毛布から出て、カーテンを開けた。十一月の早朝の空気は澄んでいる。
「透也君……?」
 寝室とリビングの境にある引き戸が開き、優菜が顔を見せた。肩元で揃えられた髪の毛先の、一部分だけが違う方向に跳ねている。
「おはよう。悪い、起こしたか?」
「ううん……、おはよう」
 優菜は少々気まずそうに笑い、そのままバッグと一緒に洗面所へと消えていった。
 この空気感に慣れていないのは、透也も同じだった。この家に誰かを泊めたのは初めてだ。
 洗面所から水音が心地よく響く。静けさの漂うこの部屋に、今はテレビなどの雑音を入れたくなかった。透也はリビングの奥にあるキッチンまで裸足で歩き、コーヒーメーカーをセットし、いつかの朝を思い出した。
「透也君、借りたタオル、どうしたらいい?」
「あ、洗濯機の中に放り込んでおいて」
「分かった。ありがとう」
 昨日の夜に着ていたニットとジーパン姿になった優菜は、跳ねた髪の毛先も直したようだった。女の身支度の完璧さと素早さには、こういう時に感心する。
「優菜ちゃん、朝ごはんはパン派だったっけ?」
 コーヒーメーカーにコーヒー豆をセットする前に優菜に確認すると、優菜はふっと笑い、挑発的に透也を見上げた。
「透也君は、食べない派じゃなかったっけ?」
 そのやり取りにデジャブを覚え、記憶を巡らせる。きっと、ここ一、二か月の話ではない。透也は思わず声に出して笑い、優菜を見た。
「近くに、最近オープンしたカフェがあるんだけど、行く?」
 透也が提案をすると、メイクするからちょっと待って、と優菜は満足そうにうなずいた。

 以前にもこうして優菜とカフェで朝を過ごした事があった。今まで忘れていたのに、店も全く違うのに、カフェという独特の雰囲気でいっきに記憶が呼び覚まされた。
 土曜日にも働く会社員はそれなりに存在していて、入口近くの席ではスーツを着たOLが新聞を読みながらコーヒーを啜っている。
 こうして日常に近い光景に身を置くと、昨夜の時間が夢のようにも思う。優菜と二人きり、最も心を曝け出した時間だった。優菜がいてくれてよかった。昨夜の母親からの電話の後、一人でいたらきっと耐えられなかったから。
 年末には透也は関西地方に引越す予定だ。これまでは自分がどこに住もうと問題ないと思っていた。それは、透也にとって大切にしたいものがないという事と同義だった。
 一月にはこうして優菜と気軽に会う事もなくなる。たった一か月ほど前に再会したばかりなのに、名残惜しくなるのはどうしてだろうか。
「優菜ちゃん」
 ブレンドコーヒーを飲みながら、透也は脳内で言葉を整理していく。
 俺、転勤する事になったんだ。声に出そうとした途端、戸惑いが発声の邪魔をした。その一言に続くものは、いったい何だというのだろう。優菜は恋人ではなく、離れた後でも仲良くしたいと思えるほどの時間を築いた友人でもない。
「なに?」
 四角いテーブルの二人席、目の前でベーグルを食べながら優菜が顔をあげる。
「あ……、同期の人の結婚式、来月って言ってたよな? よかったら、その後に会う?」
 慌てて口をついた言葉は全く違うもので、透也はなおさら慌てた。その後にって何だ、まるで彼氏面だ。おそらく優菜がもっとも嫌がる類の。
 しかし、きょとんとした表情を浮かべていた優菜は、首をかしげたまま微笑んだ。
「会ってくれるの?」
「あ、ああ……」
「嬉しい。でも透也君も忙しいだろうし、無理はしないでね」
 新婦さんのドレスを見るの楽しみだな、とはにかみながら、優菜は角砂糖を入れたカフェラテを飲んだ。
 一般的な幸せの概念に満ちた場所で、優菜が何を思うか透也は知らない。知らないからこそ、その後に会わなければならないと思ってしまった。
 透也は先の約束を好まないはずだった。しかし一か月先の約束がじわじわと熱を帯びて存在感を示していく。
 結局、転勤について告げる事はできなかった。
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