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文字数 2,164文字

 【仕事終わった? 今夜会えたら会おうよ】
 オフィス街の歩道のど真ん中、定時終了後の今は混雑時間帯だ。数人の人間に迷惑そうに追い越され、優菜はスマホを手に持ったままゆっくりと歩き出す。ブーツを履いた足裏で、アスファルトの感触をなぞっていく。
 連絡先を交換したのは社交辞令だと思っていたのに。戸惑いの中に、どこかで浮かれた気分が混じる。
 透也からのメッセージは突然かつ強引で、断ることもできた。だけど、排気ガスまみれの都会の空気のように、自分の心にも得体の知れないものが沈んでいるような気がして、優菜はその呼び出しに応じた。
 待ち合わせ場所は、以前に飲み会をした繁華街の駅前だった。世間はバレンタイン前日で、コンビニのウィンドウにもバレンタインの文字が大きく飾られている。
「お疲れ」
 スーツ姿の透也は、先日の私服を着ていた時よりも更に人目を惹くオーラを放っているようだった。声をかけられて気後れしてしまったのは、会うのがまだ二回目だからという理由だけではない。
 定時後という時間だからか、駅前の広場は足早に歩くサラリーマンやOLなどで溢れている。
「優菜ちゃん、お腹空いてる?」
「んー……、それなりに」
 本当は、多忙によって昼食が遅れた為、あまり空腹を感じていなかった。しかし、それを正直に打ち明けられるほど透也とは親しくない事くらい、優菜も分かっている。わきまえているつもりだ。
「悪いんだけどさ、俺、寝不足で。ホテルでルームサービス取ろうよ。コンビニで何か買っていってもいいし」
 これまでにも飲み会で出会った男に二人きりでの食事に誘われた事はあったが、まさか出会いがしら早々にホテルに誘われた事はなく、当然ルームサービスやコンビニ飯を提案された事も初めてだ。そういえば最初の夜からの独特なペースを思い出し、優菜は戸惑いながらもうなずいた。食欲もないので、男飯に付き合わされるよりはましだ。
 透也についていく形でラブホテルに入った。前回と同じホテル街にある別のホテルは、前回よりもカラフル調の部屋だ。
 母に連絡しなければ、と思いながらコートを脱ぐ。このコートにはまた独特の匂いがこびり付くのだろうか。思えば、透也と共に過ごした先日の夜からまだ一週間も経っていない。
「寝不足って、仕事で?」
「そう、接待。最近はそういうのも少なくなっているんだけど、昨日は久しぶりにお世話になっているドクターと盛り上がっちゃって」
 優菜の隣に黒いコートを掛け、ネクタイを外しながらつぶやいた透也の顔には、確かに先日には見られなかった疲労が滲んでいる。
「寝不足なのに、私なんかに会ってよかったの」
 ジャケットを脱いで沈むようにベッドに横たわった透也を、見下ろしながら優菜は問う。ホテルへと誘われた時からの疑問だった。雰囲気も何もなくホテルに誘ってきた男は透也が初めてだが、最初から性欲など存在しないような薄い笑顔を張り付けた男にホテルに連れられたのも当然初めてだ。
「なんでか、急に優菜ちゃんに会いたくなったんだよ」
 恋だの愛だのを嫌悪しているくせに? まだ残っている気まずさを隠しきれずに顔をしかめた優菜に構うことなく、透也はすでに目を閉じている。
「透也君?」
「ごめん限界。ちょっと寝かせて。優菜ちゃんは適当に過ごしてて」
 まるで自分の家であるような言い方だが、ここはしょせんラブホテルだ。優菜は部屋を見渡した。カラフルな部屋は、若い時に憧れたポップなインテリアそのもので、学生時代を思い出した。あの頃、周囲の女の子達はどんな物もカラフルな色で揃えていた。学生鞄に付けるキーホルダーも、授業中に机に置くペンケースも。
 透也の寝息が聞こえ、優菜はバスルームへと入り、シャワーを浴びた。このホテルには高級ブランドのスキンケア商品が設置されていた。急に呼び出した事による透也なりの気遣いだろうか、と考え、そんなわけがないと優菜は自嘲する。きっとただの偶然だ。
 部屋に戻ってもまだ透也は布団もかけずに眠ったままだった。スーツやシャツが皺にならないだろうか、と考えるが、そこまで配慮する義理はないと思い直す。
 ラブホテルの室内で時間を潰せることなんて限られている。テレビの横には流行りのゲーム機が置かれているが、優菜はそれに触れる事もなく、透也の横に寝転がった。
 ――急に優菜ちゃんに会いたくなったんだよ
 どこか自嘲めいた言葉だった。でも、優菜は嬉しかった。きっと透也は誰でもよかったのだろう。それでも、数多くいるかもしれない女の中から自分を選んでもらえたという事実が、優菜の存在を明確に形作っていくようだった。飲み会で話しかけられた時と同じように。
 いつからこの感覚を覚えてしまったのだろうか。優菜は他人に愛情を与えられないのに、そして他人から同じ感情を受け取る事もできないのに、都合のよい肯定だけを拾ったまま、節操のない関係に甘える事しかできない。
 結局、優菜もベッドに入る事にした。透也が布団の上に寝転がっているせいで、上手く布団をめくり上げられず、ようやく作った隙間に身体をねじ込んでいく。稼働し続けている社会のシステムに無理やり組み込んでいくように。
 やがては眠気が襲ってくる。明日はバレンタインデー、応援先として指定された百貨店は、昔の優菜の勤務先だ。
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