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文字数 2,925文字

 早朝に目が覚めた時、先に起きていた透也と間近で目が合い、さすがの空腹に笑い合った。ルームサービスの夕食兼朝食を摂り、透也がシャワーを浴びたのは午前四時を過ぎていた。そのまま当然の流れのように、一回だけ抱き合った。同じ男と数回に渡って身体を重ねるのはずいぶんと久しぶりの事だった。
 空調の効きすぎた乾燥気味の室内で互いの汗が渇いた頃、優菜が店舗勤務の応援に入る事を話すと、ペットボトルでミネラルウォーターを飲んでいた透也が興味を示した。
「応援って何するの?」
「普通に、店舗勤務の人達と同じ販売業務。私も、昔は同じように働いていたし」
「ああ、そっか。三年くらい働いていたって言ってたよね」
 ベッドの枕を背もたれにして座る透也が水を飲み込むたびに、喉仏が上下に動いた。優菜の持たないもの。
「仕事、忙しそうだな」
「透也君ほどじゃないよ」
 接待やらゴルフやらで時間外でも否応なく現場に駆け付けるだろう透也とは比べ物にならない事は、昨夜の透也の顔を見てすぐに分かった。だからそのように返したのに、透也はそんな答えを求めていないとでも言うように、黙ったままベッドに横たわる優菜を見下ろす。
 たちまち居心地悪さを覚えて、優菜は別の話題を探した。
「そういえば透也君、スウィートマンバって知ってる?」
 室内の空調が突然大きな音を立てた。見た目のわりに古いホテルである事は、水回りを見た時にだいたい分かってしまう。
「ああ、アイドルの?」
 透也の言葉にうなずいた優菜は、仕事で取り扱う事になって、と言いそうになり、慌てて口をつぐんだ。まだこの情報はオフレコだった。しかし、突然変更した話題を取り下げるわけにもいかず、優菜は予定とは違う方向に会話を続ける。
「うちの会社に、すごいファンがいて。デスクに写真を飾っちゃうくらいの」
 言いながら、玲の丸まった背中と、ラーメン屋で見た眼鏡を外した横顔を思い出した。
「写真を飾るってすげーね」
「うん。私の同期の男子なんだけど、アイドル好きって事を全然隠していないみたい」
 そして、今日の昼間に聞いた有紗や後輩による玲にまつわる話をも思い出す。
 昔から噂話が苦手だった。それは思春期特有なものだと思っていたのに、大人になって就職した会社内でも噂が繰り広げられていて、優菜は驚いた。そして、厄介な事にその場にいない誰かの噂で盛り上がっている時こそ、平和だった。人間関係が乱雑になっている社内、特に女性社員の多い場所では、その輪に入っていなければたちまち迫害を受けてしまう。
 だから、否定をする事もなく、その場をやり過ごす技を身に着けていた。それをいつの間にか心地よく思っていた。人の悪意は伝染する。悪意を向けられた側に自分が踏み越えていない事を確認する作業の解答に、いつの間にか他人の声が必要となってしまった。
 自分の事は、自分が一番見えていない。
「アイドルのファン、か……」
 かちりとしたライターの音と透也の声で、優菜は我に返った。吐き出された煙の香りが、優菜の後ろめたさをちくりと刺した。
「それだけ夢中になれるものがあるって、いいな」
 アイドルオタクという響きが、どこか嘲笑めいたものに聞こえるのはなぜなのだろうか。社内で浮かび上がる玲の話は、決してポジティブな響きを持たない。
 しかし、それらをひっくり返すように透也はただ笑った。室内を照らすオレンジ色のランプが、細くなった透也の目尻を浮かび上げている。
 優菜は透也から目を逸らし、布団の中で寝返りを打った。乾いた髪の毛が枕の上で絡まる。ベッドサイドのデジタル時計はもうすぐ午前六時を示そうとしていた。二度寝をする時間はなさそうだ。

 久しぶりに訪れた元職場は、繁華街にある駅直結の百貨店内にあった。
 バックヤードで借りた制服を身に着ける。白いブラウスの襟元に着けたまだらなピンク色のスカーフ。入社したばかりの頃、初めて身に着けた時にはドキドキした。このような小さなビビッドカラーひとつで胸を躍らせる自分に、優菜は安心していた。自分が女という生き物に収まったように思えたのだ。
 配属された社員よりも一足遅い午前十一時、売場に入り、一連の流れの確認を行う。
「絹川さん、お久しぶりですね」
 作業の合間で、若手の女性社員が優菜に微笑んだ。確かクリスマスの応援で入った時にも会った、二年目社員だ。
「朝からお客様が多いね。販促物は足りていた?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
 支社ではすでにホワイトデーの販促物を管理しているが、百貨店内での時間の流れは正常のようだ。優菜が一か月前に手配していたバレンタイン用のポスターが、狭いカウンターに貼られている。
「あの、絹川さん」
 客のいない隙を見計らうように、彼女が優菜に近づく。ひざ丈のスカートの前で組んだ両手が、華奢なのに柔らかそうだと思った。女の子の、小さな手だ。優菜も同じものを持つはずなのに、別の生き物のように思った。
「私、三月で退職するんです」
「え、どうして?」
 若手の社員やパート社員で形成された売場では優菜の社歴が一番長いが、作業については現場の社員に従うほうが効率いい。言われた通りに在庫を確認しながら優菜が思わず訊き返すと、
「結婚するんです」
 そう言った彼女の、きっちりとマスカラの塗られた睫毛の下にある大きな瞳が幸せな色に染まっていくのを、優菜はじっと見ていた。
 ストッキングを履いた足首が冷えていくのを感じながら、「おめでとう」と優菜は微笑み、棚に入った商品の在庫数をバインダーに綴じた表に書いていく。二十七歳にもなれば、結婚というイベントは特別なものでも何でもない。現に、優菜は学生時代の友人や元同期の結婚式に三回出席している。
 だけど、まだ二十四歳くらいの後輩から報告された事で、心臓が落ち着かない。洋菓子店の並ぶフロアは平日の昼間だというのに客足が多く、黒いパンプスで立った足元すらおぼつかなくなる
 すみません、とカウンターの向こうから声がかかり、我に返った優菜は営業用の笑顔を張り付けて接客を開始した。そこには、優菜と歳の変わらない男女が立っていた。「どのチョコレートがいい?」「どれが好き?」そんな会話を繰り広げながらひとつの商品を選んだ二人は、満面の笑顔を残して帰っていった。
 横目で先ほどの後輩を見ると、彼女も背筋を伸ばして接客をしていた。彼女も、先ほどのカップルのように、後に夫となる男と身を寄せ合って、ひとつのものを二人で共有していくのだろうか。他愛のない選択を、互いの思慮と妥協で重ね合わせながら。
 優菜よりも年下の彼女がひどく大人びて見えた。たいした交流のない彼女からはきっと結婚式に招待される事はないだろう。その事にひどく安堵してしまい、その途端、自己嫌悪が喉元をちりちりと焦がす。
 今朝の透也との会話を思い出した。夢中になれるもの。優菜の持たないもの。透也も、もしかしたら羨望を抱いていたりするのだろうか。整った容姿もしっかりした肩書きも持ち合わせているはずの透也も、何かに憧れたりする事があるのだろうか。
 暖房の効きすぎた店内で、優菜は息苦しさを紛らわすようにゆっくりと深呼吸を繰り返す。
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