2-11

文字数 2,950文字

「先輩、あの噂聞きましたか?」
 四月一日、隣の席でコンビニのパンを頬張った真本が、出社した玲を見上げた。玲はデスクの足元に鞄を置き、キャスター付きの椅子に座る。
「噂?」
「なんと、この情シス部に、女子が! 配属になるそうなんですよ!」
 自分に似合う事を前提で選んでいるような眼鏡のフレームに触れながら真本が得意げな表情を浮かべているのを横目に、玲はパソコンを立ち上げる。常に人不足だと嘆かれている部署に新入社員が加わる事は助かるが、それが男であろうと女であろうと玲には関係ない。むしろ、この空間に若い女が加わる事で均衡が崩れるあやふやさが怖かった。
「先輩、全然嬉しくなさそうっすね」
「仕事に性別は関係ないだろ」
「でも、可愛い女子が室内にいるだけで、仕事が捗るかもしれないじゃないですか」
「その新入社員が使い物にならなければ、余計な仕事が増えるだけだぞ」
「ていうか、先輩」
 パンを食べ終わった真本は、まだ始業前であるのをいい事にパソコンに目もくれず、まっすぐに玲を見た。
「髪切りました?」
 今更な質問に、玲は小さくため息をつく。
 玲が行きつけの理容室に行ったのは、あいりと会った翌日の日曜日だった。それから数日が経つのに、眼鏡にかかっていない前髪が心許なく、まだ慣れない。
「さすがに鬱陶しかったからな」
「先輩って意外に見てくれはいいですし、ユウナも他の男の物になっちまいましたし、これからは新しい出会いを探すチャンスですよ。春ですし!」
 あっこれ禁句だったかな、と悪びれもなく、真本は鼻歌を歌いながらようやくパソコンの電源を入れている。
 玲はキーボードを叩きながら、デスクの隅にあるユウナのアクリルスタンドにこっそり視線を向けた。ユウナの熱愛報道後にもそのままにしておいたのは、そんな報道で傷ついていないという周囲へのアピールだった。これでグッズまで消してしまったら、ますます自分は痛いアイドルオタクへとなり下がってしまう。こんな時にまで守りたい自尊心がふつふつと顔を出し、自意識過剰さに我ながら呆れる。
 始業と同時に朝礼が行われ、今日は新入社員の入社式の為に部長など数人のメンバーが不在である事を告げられた。大きな人員異動がなかったため、玲の仕事に大きな変化はなかった。その時までは。
 ふいに電話のコール音が鳴り響き、受話器を取った入社二年目に突入した若い男性社員が眉をしかめた。嫌な予感が走った。
「出村さん」
 電話を取った後輩が、眼鏡のレンズの奥にある目を神妙に細めた。
「何?」
「営業部からの内線です。今日から変更されている発注システムに、不備が……」
 四月一日、午前九時。本社の近くで行われている入社式に人員がとられている今、対応の難しいトラブル案件だった。

 内線のコール音が鳴りやまない。もう何時間もプログラムの羅列を確認している。パソコンから発されるブルーライトにより、目が悲鳴をあげている。
 支社が管轄している店舗で主に使われている発注システムのソフトが、本日から変更されている。その通達は三か月前に行われており、各店舗にもデモンストレーションが行われ、もちろん一括管理をしている情報システム部でも何度も試運転をしていたはずだった。
 昨日までできていたものが、なぜ今日になった途端にバグが発生したのだろうか。サーバーへの負担、カレンダーエラー、商品管理の登録不備。あらゆる可能性を追っても、原因を追究できなかった。
「出村先輩」
 真本から声をかけられ、玲は我に返った。デスクトップに表示されている時間を見て、午後十一時が過ぎている事を確認する。
「今日はもう帰りましょうよ」
「いや……、こんな状況で帰れるか」
「でも、社内には通達していますし、一晩二晩徹夜したくらいで復旧できるものじゃないって、先輩も分かっているでしょ」
 真本の言うことはいちいち正しい。
 しかし、玲は発注システムソフト入替に関わるチームの一員だった。チームのトップである課長は不在、次に社歴を持つ玲が主導していかなければならなかった。
 あと少しだけだから、と言い訳を残して部署内から逃げ出した玲は、廊下に出て重たいため息をついた。ジャケットを着てくるのを忘れたが、ズボンのポケットには財布がある。気分転換がてらコンビニに行こうとエレベーターのボタンを押した。
 エレベーターに乗ると何かを期待し始めたのはいつだっただろうか。そんな玲の気持ちもよそに、エレベーターは途中に停止する事もなく、一階まで降りた。
「もう最悪ー」
 一階エントランス自販機の辺りから、やたらと間延びした高い声が聞こえてきた。
「そう、システムの不調で残業。まだしばらく帰れそうにないよ。新年度からついてないな」
 女の声だった。会話の相手はスピーカーの向こう側なのだろうか、女の一人芝居にも思える語り口調が、やたらと刺々しい。
 照明が最小限に落ちたエントランス内で声の方向に視線を向けると、自販機の光を浴びた女の顔が浮かんで見えた。見覚えがあるのは同じ社員なので当然だった。しかし、それ以上に玲は彼女を知っている。
 テレビに出ていてもおかしくないほどの容姿を持った細身のその女は、あらゆる男を夢中にさせると有名の、総務部の社員だった。そして、優菜の先輩にも当たる。
 女は自販機に寄り掛かったまま、スマートフォンを耳に当てて軽やかに話す。
「でも、一番大変なのは管轄している情シス部だからね」
 自分達を貶しているように響いていた声が、途端に温度を持って冷えた空間に浮かんだ。彼女はそれから一言二言相手と言葉を交わし、「おやすみ」と言って電話を切ったようだった。相手が彼女にとってどんな関係に値する人間なのか、そのやり取りだけで分かってしまう自分が嫌だ。
 目を逸らせないまま歩いていると、ふと目が合ってしまった。強い視線からもう逃れられない。
「お疲れ様です」
 先に口を開いたのは彼女だった。総務部の人間がこんな時間まで残業している事のほうが珍しいのに、彼女の顔には疲労感のかけらも見えない。化粧という仮面をかぶったその姿は、プロ意識そのものだった。
 確か、有紗さんと優菜は呼んでいた。
 今までであれば視線を交わす事すら無理だったはずなのに、玲は強気に光る有紗の瞳に、「お疲れ様です」と挨拶を返す。
「まだ残られるんですか」
「うん、営業部のお手伝い。あなたも……、出村君も、まだ残業中でしょ」
 突然名前を呼ばれて、玲は面食らう。彼女は玲が最も関わる事のないタイプの人間だった。
 玲が言葉を返せないまま突っ立っていると、有紗はふっと笑った。
「私の後輩が、あなたを褒めてた。優秀な同期だって。だから……」
 だから、がんばって。
 コンビニのビニル袋を片手に持った有紗はそう言い残して、一階に停止していたエレベーターの扉の向こうに消えていった。
 出入口に立っている警備員は、今日も任務を遂行すべく立っている。ガラス張りの壁からは、いくつもの車のヘッドライトが差し込み、泳ぐように流れていく。光を光だと認識できるのは、闇の存在のおかげだ。エレベーターに乗る前の有紗の言葉は、優菜のものだった。
 玲は警備員に挨拶をしてビルの外に出る。途端に吹き抜けていった風は、春の匂いをまとっていた。
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