3.みちしるべ

文字数 1,816文字

 うたた寝の最中、鼓膜を揺らすテレビの音によって浮遊感が失われていくようだ。
 日曜日だというのに営業先の医師の趣味に付き合い、1DKの部屋に帰宅途端に張り詰めていたものが一気に散っていったのだ。蛍光灯を点けるのと同時にテレビの電源を入れたまま、寝転がったソファーの上で意識が融解してしまったらしい。
 森奥(もりおく)透也(とうや)にとってテレビ番組の内容にさして意味はない。部屋の静けさを打ち消す音があればそれでいい。テレビの音に触れながら過ごすのは、一人暮らし歴十年以上に渡って変わらない習慣のひとつだ。
 透也は今年で三十歳になった。
 ようやく秋の気配を見せ始めた十月上旬の夜、クッションに預けていた首元が冷えているのを自覚し、思いのほか室温が下がっている事に気付く。しかし、一度ソファーに寝そべった身体を動かすのも億劫だ。こうこうと部屋を照らしている蛍光灯の光が、閉じた瞼の向こうでうたた寝を邪魔している。このままでは風邪をひいてしまうかもしれないという危惧と、このまま意識を手放してしまいたいという欲求がせめぎ合う。
 まだ眠りに就いていない聴覚が、がさがさと音を拾う。演技がかった男女の会話が鼓膜を撫で、透也はゆっくりと目を開けた。
 バラエティ番組を映していたはずのテレビは、いつの間にか映画を放送していた。一時間近くうたた寝をしてしまったらしい。透也はソファーの上で座り直し、リモコンを使ってテレビの音量を上げた。
 人気ミステリー作家が原作を手掛けている、上映当時にも話題になった邦画の地上波初放送だった。原作であるミステリー小説を読んだ事のある透也も気になってはいたものの、結局映画館には観に行けなかった作品だった。
 ふとストーリー内で緊張が解けた合間で、渋さで売っている俳優が、ママタレとしての地位を確立し始めている女優にセリフを耳打ちした。女はしかめっ面になりながらも、男を憎からず思っているのか、頬を赤く染めている。
 こんなシーンなんてあっただろうか。透也は思わずソファーの上に座ったままテレビを凝視してしまった。
 出演している俳優も女優も原作のイメージとしては確かに申し分ない。映画実写化が決まりキャストが公開された時にも原作ファンからは絶賛だった。しかし、ものの数分、それも途中から観ただけで、主役である男と女の距離感に透也は違和感を覚えた。原作では、もっとフランクな関係性だったはずだ。
 一気に睡魔が砕け散り、思わず最後まで見入ってしまった。配給会社やスポンサーなどを絡めた大人の事情によるものなのか、エンドロールが中途半端に終わり、映画館で観る時とは違う消化不良が積もっていく。
 主役の二人に、恋だの愛だのが絡んでいただろうか。スマートフォンでSNSを確認すると、主役の二人の今後を妄想しているつぶやきが続けて表示され、透也はますます辟易した。原作は好きな小説だったのに。
 テレビを消すと、途端にリビングは静寂に包まれた。モダンテイストの雑貨屋で買った壁時計は、午後十一時を示している。
 一人の時間は苦手だ。でも、こんな時間から誰に会えるわけでもない。明日からまた一週間が始まる。

 病院内に漂う消毒の匂いは、なぜか子供の頃を思い出させる。
 午前診療時間を終えた各診療科のクラーク前は、透也と同じ医薬情報担当者と呼ばれる営業マンでいっぱいだ。
 営業相手でもある医師との面会を終えた透也は、病院内の廊下をゆっくりと歩いた。大きな窓から差し込む秋の日差しが、白で埋め尽くされた廊下に反射して眩しい。
 手に持った黒い鞄の重みが透也にプレッシャーを与えていく。営業職は成績が全てだ。今年も残り三か月を切っているというのに、幸先はあまりよくない。
 病院の正面入口の近くには受付や会計などを担うカウンターがあり、その前にある広い待合スペースにはたくさんのベンチが並んでいる。診療時間内であれば混雑しているであろうこの場所も、午後一時の今では会計待ちの患者が数人座っているだけで、がらんと静かだ。
「お母さん、泣かないでよ……」
 廊下の向こうにあるエレベーター音や患者の杖をつく音しか響いていない空間でふと声が小さく響き、透也は足を止めた。聞き覚えのある声だった。
 会計カウンターから一番離れた長いベンチに、二人の女が寄り添うように座っていた。タオルハンカチを顔に当てて泣いている中年女性と、そして。
優菜(ゆな)ちゃん……?」
 思わず声に出してしまった。
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