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文字数 2,179文字

 実家から一時間近くの時間をかけて帰宅した途端、どっと疲労が押し寄せた。午後五時、空はすでに夜の気配を落とし始めている。濡れた傘を玄関に立てかけ、照明と同時にテレビを付けると、旅バラエティ番組の再放送が流れていた。明るい声に埋もれられるなら何でもいい。
 実家に顔を出すといつもこうだ。仕事に追われている時とは違う、毒に沈められるような疲労感。ソファーに腰かけたのと同時に動悸に襲われ、透也はソファーの上に寝転がった。テレビ番組では、タレントが地方のご当地グルメを取材している。カメラに映った店員の穏やかな笑顔と、食事中の客の陽気な笑い声。老夫婦が小さな店を営んでいる。
 テレビを付けていても、自分の鼓動が浮かび上がりそうなほどの静けさに身を包まれる。人々の笑い声は薄いシェルターの向こう側にあり、鼓膜には母親の声がこびりついたままだ。――ご近所さんが羨ましい、旦那が憎たらしい、あんたは好き勝手にやっていていいわよね、定期的に顔を見せるくらいあなたの義務でしょう?
 うたた寝をする瞬間の、意識の狭間にテレビの雑音が入って来る瞬間は好きだ。でも、実家から帰ってきた日は上手く意識を手放せない。子供の頃から押し込んできた言葉が鉛のように沈殿し、行き場を失う。透也は慌ててスマートフォンを取り出し、アドレス帳を探った。
 一人でいたくないと思う瞬間は、突発的に訪れる。
『もしもし?』
 ダメもとでコール音を鳴らしてみたら、思いのほか早く相手の声が聞こえ、透也はようやく呼吸を整える。
「もしもし、優菜ちゃん。今、大丈夫だった?」
『何かあったの?』
 日曜日の夕方。放物線を描くように日が暮れる瞬間は、曜日感覚が薄かった時代から人々に絶望をもたらしたのだろうか。窓の外では雨が降り続いている。
「昨日は和菓子をありがとう。美味しかった」
『わざわざどうも。一人で食べたの?』
「いや、実家で母親と」
 スピーカー越しの優菜の声が、錆びつきそうになっていた言葉を融解していく。あのままではいけないと思ったのだと昨日の優菜は三年前を語った。三年前のあの距離感を透也は気に入っていた。気まぐれに会い、包み込まれるように繋がり、仕事で疲弊した夜にはただ傍にいてくれればよかった。ただそれだけだった。
 あのままでは駄目になっていたのは、きっと自分のほうだ。

 外回りから帰社してデスクワークをこなす、いつものルーチン。休憩がてら同じフロアにある喫煙スペースに行くと、同期である男の社員がいた。おう、とか、よう、とか適当な挨拶を交わし、透也も持っていた煙草に火をつける。
「森奥、最近どう」
 久しぶりに話す同期からの質問に、透也は眉をしかめた。十月ももうすぐ終わるというのに、成績はすこぶる悪く、同じ営業部である彼が知らないわけがない。透也は笑顔を張り付けながら、その質問に含まれる意図を手繰り寄せる。
「どうもこうも、今月はワーストワンも夢じゃないかもな。接待が減ったのは楽だけど」
 自虐と自慢を織り交ぜて伝えると、相手は怪訝な顔を浮かべたのち、破顔したように笑った。
「違う、仕事の話じゃねーよ。最近、飲み会とか行ってないんじゃねーの」
「ああ……」
 そっちか、と透也は自爆を悔やみ、しかしどちらにしても面倒な話題である事に変わりはない。
「なんか、そういうのはもういいかなって」
「なんで」
「元々向いてないんだよ、俺」
 恋をした事がないわけではない。誰かを好きにならないわけではない。しかし、のぼせ上がるほどの情熱もない。ふっと冷めた時の惨めさを知っている。
 学生の頃から変わっていない銘柄の煙草の煙が、肺を満たしていく。平日の居酒屋と同じ、自堕落で自虐な匂い。正しい事を正しく行ってきた自分の裏側にあるささくれた部分の存在を、認めるたびに安堵する。自分を取り繕うために重ねられたいくつもの皮膜。
「森奥」
 短くなった煙草を設置されている灰皿に押し付けながら、同期は言う。
「俺、結婚することになったわ」
 ガラス張りになっている壁の向こうには廊下が見え、営業部の入っているこのフロアは午後七時になっても人の出入りが激しい。
 遠くに聞こえる社員の声と、狭い喫煙スペースで稼働し続けている換気扇の音、そしてたった今告げられた言葉が混ざり込んで、透也は爽やかな風貌の同期の顔をじっと見つめた。
 二十代の頃は、一緒になって出会いを目的とした飲み会にも行った。男女入り混じった同期で遊ぶ時も、彼が取りまとめてくれた。職業柄のせいか主張の激しい彼らを仕切るのはさぞかし大変だっただろう。その同期達も半数近くが退職している。
 透也はもう一度だけ煙を飲み込み、ゆっくり口を開いた。
「おめでとう」
 周囲の結婚報告は珍しい事ではない。透也は張り付けた笑顔に殊勝さを練り込み、煙草の火を消した。「サンキュ」と同期がはにかみ、その流れに乗るように二人一緒に廊下に出る。
 小学生の頃に道徳の時間で書かされた人生設計図が脳裏をよぎった。大人になるという事。結婚をするという事、家庭を持つという事。
 いつから道を踏み外してしまったのだろうか。営業部に戻り、透也は自分のデスクに向かった。かつては自信満々に記入していた日報が、今は空虚だ。
 母にも父にも教師にも近所にも上司にも褒められるために繕ってきた皮が、軋みを立てながら剥がれていく。
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