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文字数 2,555文字

「あいつ二股していたんだよ」
 その日の昼休憩に訪れた会社の近くのカフェで、ハムサンドを頬張りながら有紗は言った。あいつ、という二人称を述べられても、当然有紗の元恋人を見た事のない優菜には顔も姿も想像できない。
 背も高くスレンダーな有紗は、モデルのように美人だ。男性社員だけでなく女性社員にも人気があり、昼休みには総務部のある三階のトイレでよく小さな女子会を開いている。そんな有紗に気にかけられている事を、優菜は嬉しく思っていた。
 キラキラと輝く有紗と一緒に過ごしていると、自分も同じようになれると思っていた。恋愛至上主義の世界に馴染むように過ごしていけると思っていた。
「でも、有紗さんにはもう新しい彼氏さんがいて、羨ましいです」
 何のフォローにもならない言葉が勝手に口先からぽろりと零れた。カフェラテを口に含んだ有紗が、懐疑心を含んだ表情を浮かべる。優菜は思わず手元にあるマグカップに視線を落とした。
 羨ましい、という言葉に偽りはない。彼氏がいる事に対してではなく、他人を好きになるという感情に対してだ。
「だって、私は……」
 有紗の声が、店内のBGMにかき消されそうなほど、小さく響いた。
「彼氏がいないと、自分で自分を保てないもん……」
 有紗の目の前に置かれたマグカップに、淡いピンク色が滲んでいる。彼女の付けている高級ブランドのグロスの色だ。優菜は思わず顔をあげて、テーブルに視線を落としたままの有紗を見つめる。
 有紗は、きっと小学生のクラスメイトであったアキちゃん達と同じだった。狭い箱の中でもきちんと男の子達を選別して、彼らの長所と短所を秤にかけて、たった一人を選んで好きになる。大人になれば、恋愛をする事はとても自然な出来事で、好きになったり夢中になったり失恋をしたり、それを後押しするように世には恋愛ドラマや恋愛ソングが溢れている。
 有紗の歴代の彼氏の中で、飲み会で有紗に一目惚れをして会社まで押しかけてきた男がいた。その出来事については、面白がる社員もいれば、怪訝な表情を浮かべた社員もいた。でも、まるで映画のような出来事だと騒がれもした。優菜もそう思った。
 世の中に溢れるドラマティックな出来事には、優菜の目の前でうつむきながらもハムサンドを食べている有紗の情熱がきっと必要だった。

 カフェでのランチを終え、優菜は有紗と別れて一つ上の階にある女子トイレへと向かう。有紗と仲良くランチをした後にだって、井戸端会議の開かれる三階のトイレには行きたくなかった。
 カフェに持って行ったトートバッグを肩にかけたまま四階でエレベーターを降りると、廊下を歩いている玲と目が合った。
「あ、お疲れ様です」
 互いに社内での挨拶を交わし、優菜はトートバッグの紐をぎゅっと握った。玲に会うのは一緒にランチした時以来だ。相変わらず野暮ったい前髪のせいで、今日も表情を読めない。
「昼飯、外に出ていたの?」
「うん、有紗さんと。あ、有紗先輩分かる? 私の教育リーダーだった人なんだけど」
 女子トイレの情報システム部は同じ方向にあり、なんとなく隣を歩きながら話す。「ああ……」と玲は肯定か否定か分からないような返事をした。
 トートバッグの中でスマートフォンが震え、優菜は手に取った。透也からのメッセージを知らせる通知だった。
「どうしたの?」
 眼鏡のレンズ越しにある玲の瞳が何かを探るように動いた気がして、優菜は後ろめたさを抱えながら、スマホをバッグに入れた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
 重ねられた問いに、優菜は曖昧に笑った。優菜をじっと見た玲の口元が、何かを言いたげに動いたが、言葉は発されなかった。
 聞きたいような聞きたくないような、二つの感情がぐるぐると回る。手の届かないアイドルに一途である男に映る世界は、どんな色を持っているのだろうか。その世界に別の何かが介入した時、彼はどんな行動を起こすのだろうか。
「絹川さんって」
 情報システム部に通じるドアの前で立ち止まった玲が、唐突に言った。
「以前から、昼休みにはここの階に来ていたよね」
 玲の言葉に大きな意味はないのかもしれない。それでも、優菜は再び不可解な感情に襲われた。
 ユウナに一途な玲は、恋愛至上主義に溢れた社会からはみ出た存在の一人のような気がしていて、自分の仲間のように思えた。でも、眼鏡のレンズ越しに優菜をまっすぐに見つめてくる玲は、そうではない。ランチの途中で引き出してしまったものと同じ感傷が、優菜をちくちくと刺してくる。
「私は、」
 トートバッグに入れたスマホの存在に縋りたくなる。正しくないと分かっていながら、埋まった沼から抜け出せない。
「私は、女の子達の輪に混ざれないから」
 震える声を吐き出しながら、惨めさに泣きたくなった。これではまるで仲間外れにされたと駄々をこねている子供のようだ。
 優菜がうつむいていると、ふっと小さな笑い声が漏れたのが聞こえた。恐る恐る顔をあげると、玲が口元を緩めて笑っていた。
「そういう絹川さんに、救われている人はきっといるよ」
 相変わらず猫背姿勢の玲の言葉に、説得力はない。それでも、自然と優菜の心の中にすとんと落ちてきた。
 玲は「お疲れ様」とだけ言い、今度こそ情報システム部のドアの向こうへと消えていった。午後の始業まであと十分もなかった。優菜は慌てて女子トイレへと向かう。
 洗面台の前に立ち、ポーチから歯磨きセットとメイク道具を取り出す。歯を磨きながら鏡越しの自分と目が合い、自己嫌悪に陥った。
 ごめん、と誰に伝えるわけでもない言葉が脳内を支配する。自分の行動すべてが正しいなんて、優菜には思えない。この世界に馴染むためなら、他人への嘲笑や悪意すら受け入れ、そこに混じる事での安心感すら覚えてしまっていた。
 玲から優しい言葉を向けられるほど、自分はできた人間ではない。
 ごめん。何度目になるか分からない三文字を口ごもり、優菜は水道水で口をゆすいだ。熱くなる瞼を誤魔化すように、アイシャドウを重ねていく。まるで擬態だ。再び自分を守るための。この社会で生きていくための。
 メイク直しを終えてバッグを抱えて三階の総務部に戻った。スマホを覗き見ると、久しぶりの透也からの誘いのメッセージで、なおさら自己嫌悪が募った。
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