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文字数 2,564文字

 異動を内示された三日後、会社を出た帰りに見たスマートフォンに、母親からの着信が残っていた。片道三十分ほどにある自宅に帰った透也は、電気とテレビを付けた後、母親に電話した。
「もしもし?」
『今日はどうしたの? 帰りが遅かったのね』
 挨拶もそこそこに文句口調で責めようとする母に、透也はなだめるように笑う。
「少し仕事が残っていたから残業していただけだよ」
 金曜日の午後九時。透也はソファーに座り、テレビ台にある四十型のテレビに視線を向けた。子供の頃から放送されている長寿の音楽番組では、秋のドラマのタイアップ曲がヒットしたスウィートマンバが、ラブソングを歌っていた。いつかの広告塔で聴いたメロディーに、母親の愚痴が混ざり込んでいく。
「母さん」
 途方もなく続いていく母の話の繋ぎ目を途切れさせるように、透也は言った。
「俺、転勤になるんだけど」
 三日前に一緒に飲んだ同業者は転職を考えていると言った。透也もこれまでに考えた事がなかった訳ではない。すり減らしていった先に見えるものは何もない。優秀社員でも何でもなくなった自分が、この業界にしがみつく意味すら見えない。
 それでも、前に進まなければならない。自分が何者でもなくなるのが、何よりも怖い。
『また?』
 スピーカーから聞こえてきたのは、予想通りの母の怪訝そうな声だ。
『あなた、入社してからもしばらく地方にいたわよね。戻ってきたと思ったら、またなの?』
「そういう仕事なんだよ。転勤がある事を分かっていて、この仕事をしている」
 透也の父も、一時期単身赴任をしていた。ローンを組んで購入したマイホームから離れて安いワンルームマンションで暮らす父に対して、母の文句は絶えなかった。
『透也』
 しっとりとしたバラード調のメロディーに、母の声が重なった。
『昨日、久しぶりにちょっと暖かかったからお庭の掃除をしていたのよ。あなたは知らないだろうけれど、家の裏も雑草がひどくなっていて。そしたら、お隣のタナカさんにばったりと会ったんだけども、』
 母の話はいつも要領を得ない。話の筋を辿るまでに少々の時間を要する。
『透也君はお元気?って聞かれたから、お母さん、おかげさまでって答えたのよ。そしたら、ご結婚はまだなの、いい人はいないの、って』
 そして、話の本筋を知り、透也はスマホを握ったままソファーにうなだれた。母は言葉を続ける。
『お母さんもう恥ずかしくて。あなた、もう三十歳よね。自分の息子が三十にもなってお嫁さんもいないなんて、思わなかった』
「……今時、そんなに珍しい話でもないと思うけれど」
『でもタナカさんが言うのよ。透也君、小さい頃からずっと優等生だったのにねって。いい子に育ったのに、結婚できないなんて不思議ねって、笑ったのよ』
 透也は実家の隣人を思い浮かべる。確かに他人に対して過干渉気味の女性ではあるが、そこに悪意はないのだろうと想像する。つまり、母の被害妄想だ。
 一週間分の仕事の疲労が更に大きく膨らんでいく。透也、と刺々しかった母の声が、次第に細くなっていく。
『彼女はいるのよね?』
 質問にもならない押し付けられた言葉に、透也は薄く笑うしかない。
「いないよ」
 そして母の期待を裏切る事を知りながら否定した事で、予想した通りの母の糾弾が始まった。あなたを産んであげたのに、あなたを育ててあげたのに、どうしてお母さんを悲しませる事しかできないの、お母さんに恥をかかせるの。
 テレビに映っている音楽番組では、いつの間にかスウィートマンバが歌い終え、別のロックバンドが熱く歌声を響かせている。激しいギターやドラムの音に乗せて、人生を説いている。
 スピーカーから響く悲鳴に似た涙声が、透也の住む1DKを浸していく。ソファーの上に投げ出した足元から浸食され、いつしか泥に溺れていきそうだ。
『どうしてあなたは、そんな風になってしまったの』
 何度も聞いたはずの母の言葉が、ざっくりと心臓を抉る。ニコチンが恋しくなった透也は、鞄から煙草の箱を取り出した。
「ごめんね、母さん」
 窒息しそうになる寸前で通話を切り、透也は煙草の火をつけた。酸素を求めるように大きく息を吸い込むと、正しさの中に煙が浮き、触媒となって透也を非現実に解放する。
 音楽番組ではロックバンドも歌い終え、メンバー達が拍手と達成感に包まれている。
 煙草を吸っても、胸元は空いたまま、部屋が空虚に満ちていく。
 ――どうしてあなたは、
 そんな事、自分が一番知りたい。
 学校で学ぶ算数も、体育で習う競技も、教わった通りにやればそれなりにこなせた。お友達に優しくしましょうという教えに従えば、友人が絶える事もなかった。
 それでも、透也の人生には何かが欠けている。ひとつひとつ積み重ねてきたはずの理想は、おもちゃの積み木のようにわずかの衝撃で簡単に崩れ去る。
 ――結婚なんてしなければよかった
 母の声が耳の奥でこだまする。煙草に含まれる有害物質が血流に乗って全身を駆け巡っていく。透也はソファーの背に体重を預けたまま、目を閉じた。
 俺は独りだ、と透也は思った。仕事で失敗をした時、人生の方向に迷った時、透也には寄り添える場所がない。例えば優菜には頼れる両親がいるように、玲にはこれからの結婚相手がいるように、透也には何もない。
 自業自得だった。物事は優劣だけで片付けられない。人々の感情を無視して、打算で周囲との関係を築こうとしてきた。上手くいくはずもない。
 テレビがCMに入ったのと同時に、テーブルに置いたスマホが再び鳴り出し、透也は目を開けた。また母親かとうんざりしたのも束の間、表示されているのは別の名前で、透也は慌てて煙草を灰皿に置き、画面をタップした。
「もしもし」
 耳に当てたスピーカーから聞こえてくる声を思い浮かべる。しかし、雑音と共に聞こえてきたのは、小さく震える声だった。
『透也君……』
「優菜ちゃん、どうしたの?」
 そういえば優菜から電話がかかってくる事は珍しかった。優菜の父親の件で礼をしたいのだと食事に誘われた時以来だ。
 透也の名前を呼ぶ優菜の声が少し遠い。背後からは時折車のエンジン音が響き、彼女が屋外にいる事をうかがえた。
『透也君、助けて……』
 優菜の言葉と共に、透也はテレビの電源を切り、座っていたソファーから立ち上がった。
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