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文字数 2,432文字

 三月に入ると、仕事は更に慌ただしくなった。
 有紗とは相変わらず時々ランチをする仲だが、先週に誘われた飲み会については断った。
「絹川さんさ、最近森奥君とはどうなの?」
 以前に玲と来たイタリアンカフェで、パスタを食べながら有紗が訊いてきた。森奥って誰だっけ、と優菜は一瞬考え、透也である事に気付いた途端、わずかな罪悪感が胃をちくりと刺激した。透也の連絡先をブロックしたあの夜から、十日以上が過ぎていた。
「どうって……、別に何もないですよ」
「え、でも前の飲み会の時、二人で抜け出していたじゃん。今は付き合っているから、飲み会を断ったんじゃないの?」
 喉の奥がひやりとしたのは、冷たい水を飲んだからではない。
 すぐに恋だの愛だの結びつける奴は鬱陶しい、という透也の言葉を思い出し、嫌な予感が沸き上がった。
「有紗さんと透也君って……」
 店内に流れる軽やかなBGMや周囲の笑い声に自分の声がかき消されないように、優菜は口元に力を込めて、有紗を見た。
「二人は、どういう関係なんですか?」
 そういえば、出会った頃の透也は有紗の名前をよく出していた。共通点だとも言っていた。今まで考えもしなかったけれど、もしかして。
「ああ、聞いていないの?」
 紙ナプキンで口元を拭いながら、有紗は笑った。
「大学時代の後輩だけど」
 がつんとした衝撃と同時に、なるほどという納得が脳内を駆け巡った。優菜は深くため息をつき、グラスにあった水を全て飲み込んだ。最後に見た透也の顔を思い出そうとするけれど、似合っていたスーツ姿しか思い浮かばなかった。割と好みの顔だったはずなのに。
「透也君とは、付き合っていないですよ」
 そういえば最初に会った翌日の朝、透也は「付き合う?」と聞いてくれた。彼なりの誠実さがあったにも関わらず、優菜は卑怯な方法で遠ざけてしまった。
 有紗が腕時計に目を向けたのを合図に、二人でカフェを出た。優菜はビルとビルの間にある狭い空を仰ぐ。三月になった途端に空の色が変わったみたいだ。
「絹川さんが、羨ましいな」
 自社ビル入口に立つ警備員に挨拶をした後、エレベーターを待ちながら有紗がぽつりと言った。
「男に寄り掛からずに生きていけるの、羨ましい」
「……そんなの、私だって」
 列の前方に、玲の丸い背中が見えた。いつかの夜に行ったラーメン屋を思い出す。
「私だって、有紗さんが羨ましいです」
 恋に溺れられる事。人を好きになるという事。世間の人々が当然のように持つ、身を焦がすほどの熱い想いは、優菜が子供の頃から憧れて、今もなお手に入れられていないものだ。
 列が進み、優菜は有紗と一緒に狭いエレベーターに乗り込んだ。狭い空間にじっと立っていると、ヒールの足元がおぼつかない。ふと顔を上げると、先ほど見た猫背の玲が優菜の横にあった。
「あ、お疲れ様です」
 久しぶりだと思いながら声をかけると、玲は優菜を一瞥した後、視線を彷徨わせるように顔を背けた。思いもよらない反応に、優菜は眉を潜めた。
 自分は玲に対して何か失礼な事をしたのだろうか。前に会ったのがいつだったのかを思い出すが、四階の廊下で話した時以来だ。思い当たる事はない。
 エレベーターが三階に着き、優菜は人で密集した空間から解放された。振り返るが、玲とは最後まで目が合わないままだった。
「絹川さん、大丈夫?」
 外の気温に合わせてコートを着たままでいるせいか、背中には冷えた汗が流れている。
「ていうか、さっきのって出村だよね? 何かあったの?」
 有紗の口から出る、出村という固有名詞に対して悪意を感じるのは、気のせいだろうか。優菜が過剰になっているだけだろうか。しっかりとメイクが施された有紗の表情に好奇心が浮かんでいるのに気付いた優菜は、ゆっくりと廊下を歩きながら、有紗さん、と言った。
「出村君は確かにアイドルオタクですけれど、でも私の同期なんです」
 総務部へのドアを開けながら優菜が言うと、有紗は意外そうな顔をして優菜を見下ろした後、「そうだね」と笑った。真意の分からないその笑顔に、優菜は生唾を飲み込む。もしかしたら、自分はこれからの井戸端会議での議題にあがってしまうかもしれない。
 絹川さん、とロッカーの前で有紗が優菜を呼んだ。
「森奥君と何もないならさ、やっぱり飲み会に行こうよ。今週の金曜日」
 今日も女らしいタイトなワンピースを着た有紗に声をかけられる事はとても嬉しい。優菜は苦手な飲み会の雰囲気を脳内に巡らせる。繕った笑顔に無難な話題、脂っぽい料理に薄いカクテルの味。
 今度こそ、と思いながらも、いつも失敗に終わる。
「考えておきます」
 鞄から化粧ポーチと歯ブラシセットを手に取り、優菜は逃げるようにその場から離れた。
 四階への階段を昇りながら、出会いを目的にした飲み会に行く事はもうやめようと思った。男に選ばれた高揚感の後には、じわじわと虚無感に浸食されていく。どうやったって優菜は恋をできない。世界がひっくり返ったって、誰かを好きにはなれない。階段を昇り終えたヒールの足元が震えた。有紗の誘いに断るという事、嘲笑のターゲットになっている玲の味方になるという事。
 これまで必死に守ってきた自分を取り巻く世界は、崩れてしまうのだろうか。
 ――それでいいんじゃねーの。
 眼鏡をかけた男性社員とばかりすれ違う四階の廊下を歩いている時、頭の片隅でつい最近に聴いた声が響いた。
 女子トイレの鏡に向かい、メイクを直していく。そうか、と優菜は思う。透也が優菜に与えてくれたものは、肯定だけではなかったのかもしれない。それでも、優菜は透也に恋をできなかった。その温もりに溶ける事もできなかった。小さな喪失感を抱えながら三階へと戻る。結局、玲とすれ違うことはなかった。
 午後の始業と共に始まる昼礼の後、優菜はパソコンを開いた。イントラネットに映し出されたホワイトデーのイメージキャラクター、スウィートマンバの三人が、今日も強気の表情で優菜に微笑んでいる。
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