3-10

文字数 1,848文字

 のどかな住宅街に並んでいる街路樹の葉が風によって揺れている。緑に混じる、赤色や黄色が秋を彩っている。
「今日はごめんね、透也君」
 白いニットコートを羽織った優菜が、透也の隣を歩きながらばつの悪そうな顔を浮かべた。
 あれから、凍り付くかと思われる空気は、意外にもそうならなかった。良美が優菜の発言を認めたからだ。
 ――あらそうなの、ごめんなさいね
 良美はあっけらかんとそう答え、質のよい木製のダイニングチェアに座っていた透也は呆然とその光景を眺めていた。優菜の感情は行き場を失い、それから再び三人でコーヒーを飲みながら、とりとめのない雑談が再開された。
 凍り付かなかったからと言って、元の空気に戻ったわけではない。しかし、良美の理解のよさに、透也は驚いていた。
「優菜ちゃんのお母さん、いい人だな」
 思ったまま言うと、優菜は苦笑した。
「ときどき自己嫌悪に陥っちゃう」
 自己嫌悪。透也は、いつかの優菜との電話を思い出す。
 優菜の自宅から駅まで徒歩十分、歩道の道幅は広く、交通量も少ない。あの家と同じような穏やかな場所に、夕方の冷たい空気が吹き抜ける。
「優菜ちゃん」
 リビングでの出来事を脳内で反芻しながら、透也は言った。
「さっきの話、本当?」
 ずっとどこかで引っかかっていた。三年前、透也に誘われながらも優菜は未来を示唆しなかった。それまでの透也の経験上、何度か肉体関係を持った女は、透也の心を欲しがった。透也と恋人になりたがった。しかし、優菜にはその欲が見えず、そして透也の「付き合う?」という問いは静かに否定された。
「本当だよ」
 三年前よりもずっと短くなった優菜のボブヘアが、歩くリズムと共に肩元で揺れている。
「私、おかしいんだよね。人を好きにならないの」
 隣を歩く優菜の足元がスニーカーである事に透也は気付いた。彼女の目線の高さが違うのはそのせいだった。
 いつもヒールを履いてコンサバなファッションで着飾る優菜も、カジュアルなデニムパンツにスニーカーで歩く優菜も、どちらも本当の姿なのだろう。
「別に、セックスができないわけじゃないの。性対象は男の人で、女の人としたいと思った事はない」
「それでも、好きにはならないんだ?」
 透也の貞操観念的にも、好きにならなければセックスをしてはいけないという決まりごとはない。しかし、あの家庭で育った優菜が、飲み会で出会った自分を誘ってきた理由を今になって知る。
 優菜は苦悩を抱えていたはずだ。こうして語れるのは、きっと彼女が自分の中で折り合いをつけたからで、若い時にはそれができたとは思えない。
 透也の言葉に、優菜はゆっくりとうなずき、歩いている足を止めた。
「透也君」
 いつもより低い場所から、優菜が透也を見上げた。西に傾いている秋の日差しが、柔らかく優菜の白い頬を照らしている。
「三年前は、本当にごめんなさい」
 それはもう終わった話のはずだった。しかし、優菜は言葉を続ける。
「こんな事を言ったら失礼だと思うんだけど……、透也君も、同じかもしれないって思っていたの」
 喉の奥がひやりと冷えたのは、決して寒さのせいではない。
「私はこんなだから、男の人に好きになられるのも、……気持ち悪くて」
 悲痛さを帯びた優菜の声が、足元のアスファルトに落ちていく。
「でも、透也君は私を絶対に好きにならないって思った。すごく、嬉しかった」
 何を見抜かれているのだろうか。優菜の大きな瞳が潤っていくのを、ただ見つめる事しかできない。
「透也君と一緒に過ごして、本当に楽しかった。私も普通の人みたいになった気分だった。透也君に選んでもらえたのも、手を繋いで並んで歩いたのも、ホテルで何もせずに爆睡されたのも、全部。……私にも、恋人ができたみたいだった」
 優菜が透也を拒絶した理由は、透也が優菜に抱いている感情と少し似ている。そして、人を好きにならないという優菜の事情は、透也のそれとは似ているようで、全く異なるものだ。
 ごめんなさい、と両手で顔を覆うように、優菜は泣き崩れた。
 地下鉄の駅に繋がる階段から歩いてきたサラリーマン風の男が、ぎょっとした顔で透也達を見て通り過ぎていく。
「優菜ちゃん」
 嗚咽と共に揺れる前髪に触れようと手を伸ばしかけて、やめた。自分達はどうやったって恋人にはならない。歯車は噛み合わないまま、軋みをたて続けている。三年前から、それぞれの理由を絡めながら。
「話してくれてありがとう」
 顔を覆っている優菜の手のひらから涙が溢れ落ち、冷えたアスファルトを濡らした。
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